9d-4



翌朝、啓介は早い時間――平凡な高校生なら極当たり前の時間だが、彼にとってはかなり早い時間――に目を覚ました。
史浩に高校に行くことを約束したからだ。
久しぶり着る制服はすっかりしわくちゃで薄汚れ、ネクタイもよれよれだ。
濡れて丸めたままのプリントが上着のポケットに入っていた。
(学校行かないとな……史浩と約束したし)
昨夜、コンビニの駐車場で、史浩は啓介に『明日は必ず学校に行けよ』と言い、缶コーヒーを手渡してくれた。
そのコーヒーは飲まずに枕元に置いてあった。啓介はそれを手に取る。
(史浩との約束……だからな)
自分に言い聞かせ、すっかり常温になったその缶コーヒーを開けると、一気に飲んだ。



リビングダイニングに入ると、通いの家政婦と涼介がいた。
「おはよう、啓介」
「おはようございます、啓介さん」
兄の涼介は既にダイニングテーブルについていて、コーヒーを啜っていた。
家政婦が不思議そうな顔で啓介を見た。制服姿でこんな早い時間に起き出してくる啓介など、いったい何時振りか、と彼女の顔には書いてあった。
「……おはよ。アニキ。好江さん、オレもメシ食うから」
「あっ、はい!」
啓介はきまり悪そうに涼介の前に座った。
家政婦は啓介に言われて慌ててキッチンへと消えていった。
いつも啓介は気まぐれな時間に起きてきて、朝食も食べずに出かけてしまうのが常だったので、彼の分の朝食の準備など、家政婦の頭からはすっぽりと抜けていたのだ。
「啓介」
「……何?」
涼介がコーヒーカップをテーブルに置き、神妙な面持ちで啓介を見据えた。
「今夜、時間を空けておけ。そうだな……8時に、必ず家にいろよ」
「8時? 何で?」
「オレと史浩とお前で出掛ける」
「出掛けるって?」
「行き先はその時に言う。いいな?」
「……うん」
「約束だぞ」
「わかった……」
「じゃあ。好江さんごちそうさま、美味しかったよ」
涼介は席を立ち、テーブルの隅に置いてあったFCのキーを掴んでリビングダイニングを後にした。
(何だってんだ?)
大事なところは隠したまま、しかし有無を言わせないのが涼介流だ。啓介は押し切られた形だ。
(史浩も一緒……出かけるって……)
三人で一緒にどこかに出かけるなど、何年ぶりのことだろう。
啓介の素行が悪くなる前は、よく三人で一緒に遊んだものだが。
(なんか変な感じ……)
史浩の名前を出されて、啓介の心がキン、と痛んだ。
昨夜……史浩を窓越しに見ながらした自慰のことを思い出した。
史浩の部屋には窓際の壁に電話が掛けてあり、その脇に広い出窓がある。出窓のスペースに腰掛けて窓の外を眺めながら電話するのが史浩の癖だ。子供の頃から数え切れないほど遊びに行ったから、よく知っていた。
(……なんであれがあんなに気持ちいいんだろ……)
女とするセックスよりずっと気持ちいいというのは、一体どういうわけなのか……ただ見ているだけではなく、自分の手が史浩のものであれば、つまり史浩に身体を触られたいということで……突き詰めた先にある答えに、啓介ははっとした。




久々に登校した高校は、相変わらず荒れていた。昨日の今日でバイクを使うのは躊躇われ、徒歩で行った。
校門の辺りで俗に言うヤンキー座りで円座になっている後輩達が「啓介先輩、久しぶりッス!」と嬉しそうに声をかけてきた。
吸殻があちこちに落ちている。この間他校生が乱入してきた騒ぎで割れたガラス窓はそのままだし、朝っぱらから改造されたバイクの音をさせて中庭を走り回る馬鹿もいる。
玄関脇にいた美術教師が、「うっす」と手を上げた啓介を厄介なものを見る目で睨んでいた。
啓介の通う高校はお世辞にもレベルは高いとは言えず、辛うじて高校と名がついている程度である。
問題のある生徒が殆どで、啓介もその一人だった。一年から二年に上がる時には三分の一が退学していた。
兄の涼介の通った高校と比べれば天と地ほどの差があったが、中学の終わりには既に荒れていた啓介が通えたのは、この程度の学校位しかなかったのだ。
かったるい授業。一方的に喋る教師。誰も聞いてはいない。
笑い声と雑談。タバコの煙。頭の上をエロ本が飛び交い、「つまんねー」と出て行く者もいる。教師は止めない。
啓介は頬杖をついて窓の外を眺めながら、今夜のことを考えていた。
(――どこに行くんだろう。何するんだろう)
改まった涼介の雰囲気から、自分へのお説教なんだろうなという予感がする。
体育館前に数学教師自慢のスポーツカーが停まっていて、彼が水場からホースを引いて、職務中だというのにせっせと洗車しているのが見えた。生徒が生徒なら教師も教師だ。確か、MR2とかいう名前の車だ。
(そういえばアニキと史浩って車が趣味だったよな。あれ、バイクで走ってると超うぜえんだよなぁ)
啓介はいつだったか、赤城の山で二人の車をちぎったことを思い出した。
バイクで走っていて一番うっとうしいのは車だ。
せっかくいいスピードに乗っても、車のせいで減速をやむなくされたりする。
(楽しいのかな……車って)
涼介と史浩は同い年で、大学に入ると同時に、入学祝と称してそれぞれ父親に車を買ってもらっていた。涼介と史浩の買ってもらった車の金額を聞いて、啓介はちょっとびっくりした。しかも峠を走るとかで改造を施し、その金額にまた驚いたものだ。
二人は夜な夜なとは言わないが、しょっちゅう峠に繰り出しているらしい。



「高橋、今日はガッコ来てんだな」
「まーな」
休み時間、廊下で隣のクラスのスキンヘッドが声をかけてきた。
仲が悪いわけではないが、お互い別の暴走族の幹部クラスで、ヘッド同士が何が理由か矢鱈仲が悪いせいで、余り表立って仲良く振舞うことは出来なかった。
「退学前の悪あがきってとこか?」
退学前、とスキンヘッドに言われ、啓介は「は?」と素で聞き返した。
「は、って何だよ。オレと高橋、退学になるんだぜ? 教務主任から聞いてねえのか? 家に電話来たろ?」
「いや……ウチ、親は別に暮らしてるから」
「じゃあそっちに電話行ってる筈だぜ。一学期の終わりと同時に退学、ってコトになるらしーぜ」
「はぁっ? それ後もう一ヶ月ねえじゃん!」
「ああ、無いな」
ま、高校中退なんてハクにもならねーけどな、とスキンヘッドは笑った。
(……オレ、退学になるのか……?)
退学という言葉に、啓介の鼓動が早くなっていった。
(ここ中退したら、オレどうすりゃいいんだ?)
卒業がヤバイとは散々言われていたが、いつも笑って右から左へ受け流していた。それが現実味を帯びたことが無かったせいだろう。
友人達がどんどん退学していったが、自分は大丈夫、とどこか楽観視していたのだ。
が、これだけ具体的に話が纏まってくると、別だ。
(やべえよな……高校中退したら、流石にアニキももう庇ってくれねえかも……)
散々遊び惚け、警察の世話になっている啓介が家を追い出されずに済んでいるのは、ひとえに涼介が『自分が責任を持って高校を卒業させ、一人前にするから』と親から庇ってくれているからこそだった。
両親から啓介はこれまで何度も「出て行け」と言われたのだ。
(そうだ、アニキもしかして……)
今夜の『出掛ける』話とは、もしかして退学に関係していることではないだろうか。
(やべーかも……オレ、超やべーし……)
慌ててみたところで、今更どうにもなりはしないのだが。



同じ頃、大学にいる涼介に父から電話があった。
案の定、啓介のことだった。
啓介の高校の教務主任から退学を勧める電話が父に掛かってきたというのだ。涼介に掛かってきた後、父親に話しがいったようだ。
父は驚くでも慌てるでもなく、淡々としていた。
『――東北に、高校の中退者ばかりを受け入れる私設の学校がある。そこに啓介を行かせようかと思うんだ』
「待ってくれないかな、オヤジ」
涼介は焦った。
「確かにそういう学校があることは知っていて、オレもそういう学校の理念には賛同する。けど、今の啓介を行かせても……」
テレビのドキュメンタリーでそういう学校があるのは涼介も知っていた。
名物先生がいて、最初は荒れた生徒達とぶつかり合い、次第と心を通わせて最後には更生する話に涙ぐんだこともある。
だが、そもそも啓介が今の様になった理由は、電話口の向うの父と、母だ。
普通、そういう場所は最後の砦とでも言うべき場所で、それまでに親は子供と散々向かい合い、解決方法を模索し、ぶつかり合うのが普通ではないだろうか。なのに自分の親は啓介の非行と向かい合うことなど全くしようともせず、そのような場所に丸投げをしようとしている。臭いものに蓋ではないか、と涼介は憤った。
そもそもの発端は啓介が中学の頃、彼の成績があまり芳しくなかった時期だ。
涼介と同じ塾に通ったがどうにも成績が伸び悩み、志望する高校のレベルを下げるように塾に言われた。
このままでは大学の医学部は無理でしょう、と塾に言われ、「そんな息子はうちの子ではない」と両親は途端に啓介に辛く当たりだした――それが、啓介の転落の始まりだった。
医者一家で育った両親には、子供も医者にさせるのが当たり前という考えだ。医者になれない啓介はいらない、という極論に、涼介は自分の親ながら軽蔑せざるを得なかった。
『涼介、もう啓介を庇うのはやめなさい。あの子は、駄目だ』
「……ッ!」
あの子は駄目だ、なんて、親が息子について言う言葉だろうか。
涼介は唇を噛んだ。
電話口の向うで、『院長先生、お客様が』と事務長の声がした。
『済まないが、客人だ。切るぞ。啓介の退学の手続きはしておくから、お前は勉強を頑張りなさい――』
「オヤ……」
父の電話は切れた。
「……ああ……全く……」
涼介は切れた携帯を手に、頭をがしがしと掻いた。
学生食堂前のカフェテリアのベンチでうなだれる涼介は、特大のため息を零した。



涼介の父は、受話器を置くと事務長に客人を通すように命じた。
やがて院長室に入って来た客人に、高橋クリニックの院長は少し驚いた。
「何だ、客だというから誰かと思ったら――」
院長室に通されたのは、彼の弟――史浩の父だった。明るい色のシャツと派手なネクタイ、よく磨きこまれた革靴という目立つ格好だった。
「やあ、アニキ。久しぶりだな。いやここでは院長先生というべきか?」
「……高橋コーポレーションの社長さんが何の御用かな?」
「ははっ、御用といやあ御用だな」
家ははす向かいではあったが、お互い仕事も忙しく、最近では涼介の父はこちらの病院に住まいを移しているから、まともに会って話をすることは少なかった。
「ああ、そうだ。いつもお前のところの史浩君にはうちの啓介のことで迷惑をかけているようで……」
「いや、史浩は迷惑だと思っていないさ」
史浩の父はどっかりとソファに腰を下ろし、「さて」と、本日わざわざ兄を尋ねた用件を口にした。
「その、啓介君のことなんだがな――」






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