9d-5



放課を知らせるチャイムが鳴り、退屈な一日が終わった。
史浩と約束した手前過ごした今日一日、啓介は教師の話も聞かず板書もせず、ボーっと窓の外を見ているか寝ているかで過ごした。
今日は帰るというと友人達がいぶかしがったが、啓介は『用事があるから』とそのまま仲間の集まりには参加せず帰路に着いた。



初夏ということもあり、日暮れはまだ先だ。
窮屈なネクタイを緩め、ぺたんこの学生鞄を持ち直して人通りの少ない商店街を通って帰った。
途中のコンビニエンスストアの店先に張り紙がしてあり、『アルバイト募集 高卒以上』と乱雑な字で書かれていて、啓介の心臓にちくりと針が刺さる。
その隣のブティックにも『バイト急募 フリーター歓迎 高卒以上』とあって、追い討ちを掛けられた。
今の高校を退学になるとして、その後は闇の中だ。
スキンヘッドは「ウチは親が高校だけでもっていうから定時制に編入する」と言っていたが、啓介の場合今まで散々親に迷惑を掛けてきた上、今の高校への進学さえ親はいい顔をしていなかったのだ。
定時制や通信制への転校を願い出たとして、首を縦に振ってくれるとは思えない。
(……あの学校辞めさせられたら、流石にオヤジもお袋もこれ以上黙っちゃいないだろうし……アニキももうオレを庇っちゃくれないだろうな……史浩も)
思えば今日、高校の教師たちは啓介に妙によそよそしかった。いつもなら、久しぶりに登校すれば「良く来たな」の一言くらいはあったが今日はそれが無かった。
「高橋はやればできるんだから頑張れ」と、通り一遍等な台詞を言う熱血な教師も目をあわせてはくれなかった。
退学が決まっている生徒に、これ以上掛ける情けは無いということだろう。
(オヤジ達には話、行ってるよな……絶対)
流石に今日くらいは両親と顔をあわせることになるかもしれない。
涼介の行った『出掛ける』が、両親が今現在メインに住まいとしている、高橋クリニックの敷地内の別宅ではないという保障は何処にもない。そこで啓介の今後について話し合いが行われるのではないだろうか、と啓介は考えていた。そして、予感していた。
今度こそ勘当されて、何処にでも行けと放られるだろう――と。
「つか……なんで史浩なんだよっ!」
啓介はどうして最後に史浩が出てきたのか、自分で自分に突っ込みを入れた。
前を横切っていた野良猫が啓介をチラッと見て、ふてぶてしくミャアと鳴いた。



市内のあるカーショップの工場スペースで、涼介と史浩はジャッキアップされてタイヤを外されていくFCを並んで眺めていた。
「今日はどうしたんだ、平日にバトルかぁ?」
涼介がショップに預けてある、バトル用に三山に削ったタイヤを台車に乗せて奥から出てきたショップのおやっさんは、ロードスターのボンネットに並んで腰掛けている二人に声を掛けた。
「バトルってわけじゃないんですが、」
涼介は語尾を濁した。
ある意味、バトルではあるかもしれない――啓介の今後を決める、大事なバトルだ。
「それにしちゃバトル用のタイヤ付けてくれってんだから、何かあるんだろう?」
「ええ、まあ」
「昨夜遅くにフミが涼介のFCのセッティングしてくれなんて電話掛けてくるから、何事かと思っちまったぜ」
頭に白いものの混じったおやっさんは煙草を咥えたまま笑った。この工場の社長で、跡取の息子と共に工場を切り盛りし、人柄と腕前でこの辺りの走り屋連中に松本のおやっさん、と慕われていた。
「すみません、おやっさん。横入りさせて貰っちゃって」
「いや、いいんだよ」
史浩が恐縮し頭を何度も下げた。おやっさんは手をひらひらさせると、息子の修一がタイヤを全て外したのを確認し、「じゃあやるか」とバトル用のタイヤを取り付け始めた。
「で、お前ンとこのオヤジさんはその私設の学校とやらに啓介を預けるっていうんだな」
「ああ」
涼介は今朝携帯に掛かってきた、父からの電話の内容を史浩に伝えた。
「まぁ、妥当な線だろうなぁ。お前のオヤジさんが考えることとしちゃ」
「だろ。あの人、原因が自分だって分かってないからな。病気の原因を考えずに薬を与えようとするようなものだ」
涼介は不機嫌を隠さなかった。
今日は一日、父からの電話のせいで機嫌が悪かった。
「オレは啓介が可哀想だよ……オレだって成績が芳しくなかったら、同じようになってたかもしれないからな」
「……ふぅん、」
史浩の父も、かつては医者にならなかったことで祖父とは随分喧嘩をしたと聞いた。
ただ、史浩の父は啓介と違って学業はそれなりにこなしていたし、祖父は喧嘩をしながらも、ずっと史浩の父のすることを見守っていた。
「成績だけで人をはかるのもなぁ……教師を目指すオレ的には、どうかと思うな」
「そうは言ったって、今更あの人の頭の中は変えられないだろ」
涼介は頭を掻いた。
「涼介さん、タイヤ、また明日には戻すんですか?」
元々ついていたタイヤを外し終わった修一が、額の汗を拭いながら二人の前に歩いてきた。
「ああ、そのつもりだ。お願いできるかな」
「いいですよ。いつでも来てください。コレ、奥に仕舞わないでおきますから」
修一は台車に乗せた、元々ついていたタイヤを指して微笑んだ。
「でも、ダウンヒル仕様でセッティングしてタイヤも付け替えでブレーキパッドも交換って、……何なんですか、ホント」
理由を知らない修一は首を傾げた。無理も無い、このタイヤは余程の時でないと涼介が出さないタイヤだし、ブレーキパッドも交換にはやや早かった。
「まぁ、その内追々話すよ。もしかしたら、お客が一人増えるかもしれないんだ」
「へぇ、それはそれは」
史浩の意味ありげな台詞に、修一が興味深げに食いついてきた。
「史浩、まだ……」涼介が史浩を睨んだ。
その時、涼介と史浩の携帯が同時に違うメロディで鳴った。
「あ、」「お、」
二人は殆ど同時にジーンズから携帯を取り出し、ディスプレイに表示された番号を見て声を上げた。
「父さんだ」
「オヤジだ」
そしてお互い顔を見合わせた。
「……」
「……」
無言で頷きあい、立ち上がって逆の方向へ歩きながら携帯を耳に当てた。
「もしもし……」
「はい、もしもし」



「変なの……」
修一はまた首を傾げた。



先に通話が終わったのは史浩で、計画がほぼ思い通りに進んでいることと、自分の父親がやはりカタギではなかったということを確信しロードスターにまた腰掛けた。
史浩の計画は殆ど完璧だった……が、ただ一つだけ、誤算があった。
「まいったな……ちょっとやそっとじゃ失敗できないな、これは」
一人ごちて、タイヤを履かされていくFCを見た。このFCと、そのドライバーである涼介に計画の成功の全てが掛かる形になった。
「史浩、喜べ!」
シェルをバチンと畳みながら、涼介が駆けてきた。ボン、と音を立てて勢い良くボンネットに腰掛け、史浩が「へこむだろ!」と笑いながら怒った。
「啓介の車の件と、高校のことだろ? うちの父さんからの電話もそれだった」
「なんだ、やっぱりそうか……」
史浩の父から史浩への電話は、こういう内容だった。
啓介の高校の件は、退学は無かったことに出来ることになった、ただし啓介がこれから最後まで真面目に通学することが条件だ。
電話で五分も掛からなかった、駅前のビル買収より簡単だった、あの理事長一家は弱みのデパートだからなと笑う父に、史浩は少し呆れた。
そして兄――涼介と啓介の父と会い、啓介の退学がなくなった件を中心に、色々と話したらしい。
当初涼介たちの父は、啓介の退学が取り消されても、啓介を東北へ行かせるつもりだったらしい。その決意は頑としていて、「六本木のおネエちゃんを落とすより難しかったよ」と、母が聞いたら夫婦喧嘩に発展しかねない、そもそも息子に言うべきではない一言が添えられた。
しかし、そこは腕一つでの仕上がってきた実業家。しかも兄の性格はイチから百まで承知だ。上手く丸め込み、啓介を今の高校に卒業まで通わせること、涼介と史浩に啓介の今後を任せることなど――を約束させた、という。
「……だってさ」
史浩はやれやれ、と肩を竦めた。
「オレの方も、流れとしちゃ史浩の話に沿ってるな。オヤジ、なんか憑き物が落ちたみたいになってたよ」
「そうか」
今朝は怒りを秘めた口調で啓介のことを非難していた涼介の父は、先ほどの電話では「啓介を頼むぞ」と、文字通り百八十度方向転換していた。
「ただ困ったことに、一つ、誤算があったんだよ。涼介」
「分かってる」
史浩が困惑した顔で人差し指を立てた。涼介がその指を子供が擦るようにぎゅっと握った。
握ったまま、涼介が史浩の顔をじっと見た。その整った顔に、史浩は同性かつ従兄ながら妙に気恥ずかしい気持ちになる。
「……叔父さんがうちのオヤジを言い包める都合上、啓介はもう族を辞めることを了承して走り屋になるってことになってるんだよな?」
「そう、そうなんだよ……」
トントン拍子に思われた史浩の計画だったが、一つ、誤算があった。
それは、史浩の父が涼介たちの父を言いくるめるためについた嘘――この嘘がなければ、多分言いくるめられなかったからな、と史浩の父は言い訳していたが――啓介は涼介の走りに感化され、暴走族を辞め、走り屋になりたいといっている、ということになっているのだ。
族に比べれば、涼介と史浩の走り屋など可愛らしいものだと涼介たちの父は思っているらしく、族を辞めるなら免許も取らせてやるし、涼介と史浩と走るための車の金も出してやる、というのだ。
「……今夜は失敗できないぞ、涼介……」
「分かってる」
「何が何でも啓介をクルマに目覚めさせて、族を辞めるって言わせるんだ」
「ああ」
二人はその、傍から見たら誤解されそうな格好のまま見つめあい、頷きあった。



その頃、啓介は最近付き合い始めた女のアパートに寄った。そこは高校と家の丁度中ほどにあった。
彼女は同い年だが高校生ではなく、水商売で稼いでいる女だった。出勤前で、メイクの真っ最中だった彼女は啓介の訪問を喜び、いつもするように啓介とキスをした。そのままベッドに縺れ込み――。
「あれ……」
「どーしたの?」
女の上にのしかかった啓介が、困惑の声を上げた。
派手なキティちゃんの柄のリネンに仰臥した女が、啓介を不思議そうに見上げている。
啓介はその時、自分の股間をまじまじと見た。
「あ、いや……」
「どーしたのよ啓介?」
「……いや」
いや、を繰り返す啓介の股間は、――勃っていなかった。
目の前の女はすでに全裸で、たわわな乳房もきゅっとしたウエストもすらりとした脚も魅力的なのに。
いつもなら女が脱ぎ終わる前に挿入したくてたまらなくなるのに、だ。
(勃たねえ……!)
啓介は焦った。焦ったが、だからといって勃起するような単純なものでないのは持ち主である自分自身分かっている。
「ご、ごめん、やっぱ今日はいいわ、オレ。お前もう出勤だろ、な、だから」
やめようぜ、と啓介は女から慌てて離れた。
「いいじゃない、啓介。やろうよ、ねえー」
「いや……オレ帰るし、うん」
「何でよぉ?」
女が帰ろうとする啓介に縋りついてきた。たわわな胸が背中に当たったが、いつものような性的な興奮が喚起されない。
(……なんでだよっ)
啓介は焦った。
「ねえ、啓介ぇ」
「いいっつったらいい! 今日はしねえんだ!!」
啓介は女を振り払い、ぺたんこの鞄を引ったくり慌てて部屋を飛び出した。
部屋に入ってから僅か五分足らずの出来事だった。
啓介ぇ、と女が後ろで叫んでいる。アパートの階段を飛び降り、住宅街を走った。
(やべえ。オレ、勃たなかった……!)
啓介は昨夜のことを思い出した。
(史浩でしたときは、あんなに勃起したのにっ! あんなに興奮したのにっ……!)






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