すみません、ちょっとよろしいでしょうか。
馴染みの店の一番奥の二人席。照明が少し寂しい店だが、水曜になると文太はいつもここで一人で飲んでいた。
文太に声を掛けたのは、ポロシャツを着た若い男だった。
二枚目と言える顔ではなかったが、人の良さそうな笑みを浮かべ、店内に入り文太を見つけると迷う事無く近づき小声で話しかけてきた。
何だよ、兄ちゃん。
ちらっとその男を見遣ると、文太は三本目の銚子を最後まで猪口に注いだ。
ご主人、よかったら、遊んでいきませんか。いい子がいるんです。
声を潜め、若い男は言った。
兄ちゃん、客引きは禁止だぜ。オレが警察だったらアンタ今頃お縄だぜ。
笑いながら文太が言外に断ったが、若い男はええ、知ってます。そうですね禁止ですよねェ。でも、ご主人が警察じゃなくてお豆腐屋さんなのはわかってますから、ええ。と、文太の素性を知った上での誘いだ、と返した。
何だコイツ。文太は細い目で男を睨んだ。客商売をしていれば、こちらがあちらを知らなくてもあちらがこちらを知っていると言うことはままあることだが、こういう誘いに使われるのは心外だ。
ああ、そう怖い顔をしないで下さいよ、ご主人。悪い話じゃないんですから、と若い男は店の外を指差した。
いい子っていうのは、大学生です。23歳です。今、店の外で待ってるんです。色白ですらっとしていて、黒髪で、……今日が初めてなんですよ。だからまったく客慣れしていません。綺麗な顔してるんですが、愛想はないです、でも、多分ご主人は、気に入ると思うんですよ。結構お買い得だと思うんですけどね……あ、今日は本人の意志で、お花代は頂きません。お試しキャンペーンってことで。場所はお任せしますが、流石にご自宅はまずいでしょうから、これ、差し上げます。
若い男は一通りのことを勝手に言うと、ポロシャツの胸ポケットから小さなオレンジ色の紙を取り出し、そっと文太の前に置いた。
秋名の峠に続く道沿いにある、趣味の悪い、安いラブホテルの無料券だった。
それを見て、文太の機嫌はいっそう悪くなった。
ふざけんな、と怒鳴り散らしてやりたかった。が、店内にはまだ客は多いし第一この店にはツケが結構貯まっている。ツケが効いて気兼ねなく飲める、数少ない店だ。揉め事を起こして今後ここで呑みづらくなるのも嫌だ。
とりあえずはこの若い男と店の外に出ることにしよう、それからその黒髪の女子大生とこの若い客引きの男に一喝くれてやろう、馬鹿なことをするんじゃねえと言ってやろう。文太は軽く酔いの廻った頭でそう考えた。
女将に軽く挨拶した文太は、若い男の後に続いて店を出た。テーブルに置かれた無料券を摘まむと、無造作にデニムの尻ポケットに突っ込んだ。くしゃりと紙が折れる音がした。
若い男は店を出て少しだけ東に歩くと、もう店仕舞いをして灯りを消した花屋と、先月潰れた金券ショップの間の、道ともいえぬ細い路地の前で立ち止まった。
この奥です、この奥にいますから、と文太に向かって言った。促され、文太はその、夜の街の隙間へと足を踏み入れた。
後ろから若い男が付いて来る。文太は後ろをちらりと見遣った。そこで今頃の様にハタと気が付いた。美人局。挟み撃ちじゃねえか。圧倒的に不利だ。スラックスのポケットに入れた財布の中にキャッシュカードとクレジットカードと免許証が入っていることと、暗証番号が誕生日であることを思い出し、やばいな、オレも歳食ったな、ここにきて気付くたぁな。あー、若い頃の時の様に脚は上がんねーだろうな、やっぱり店で怒鳴り散らした方がましだったか、と少し後悔した。
建物と建物の間の奥に、確かに人影があった。その人影は、こちらを向いていた。
ただ、どうも背が高い。
文太より、でかい。
こんばんは。影は艶のある、しかも明らかな男の声で文太に挨拶をすると、ゆっくりとこちらへと歩いてきた。
高そうな革靴と、深い色のデニムと、ぱりっとしたワイシャツと。黒髪の、色白の、綺麗な顔の。影が文太の目の前に立つ頃には、すっかりその正体は明らかになった。
高橋……なんだっけ、アンタ。リョウスケだかケイスケだか……一度ウチに来たヤツだな。文太は困惑した。少し前、一度だけ、拓海が連れてやってきた、背の高い兄弟の、兄の方がそこには立っていた。
この春から拓海はこの男が作った走り屋のチームで県外遠征をすることになっている。ハチロクを弄らせてもらうからと、この男は金髪頭の弟と共に、拓海に案内されて文太に会いに来たのだ。
啓介は弟です。オレは涼介です。目の前の、頭一つ背の高い男はそう言って嬉しそうに微笑み、首を傾げた。
兄ちゃん、女子大生っつってなかったか。後ろのポロシャツの男に振り返って言うと、彼はやはり人の良さそうな笑みを浮かべ、ご主人、オレは大学生とはいいましたが、女子大生とは一言も言ってませんよ、と返し、文太ははてと先ほどの話を頭の中で反芻した。そうだ、確かに、女子大生とは言っていなかった。
ありがとう、史浩。後で連絡する。涼介は文太越しに、ポロシャツの男にそう声を掛けた。
わかった、じゃあな涼介。ではご主人、後はよしなに、と、史浩と呼ばれた男はぺこりと頭を下げ、二人を残して大通りへと去っていった。
史浩が去った後、文太は涼介と向かい合った。
アンタ、何のつもりだ。文太が尋ねると、涼介は少し照れくさそうにはにかんだ。
すみません、回りくどくて。お願いがあるんです。実は。
涼介は言った。
ハチロクのことだろうか、と文太は思った。が、それにしては呼び出し方が普通ではない。文太は何事かと考えをめぐらせながら胸ポケットから煙草のソフトケースを取り出すと、一本つまみ、咥えた。
藤原さん。オレを、あなたの息子にしてください。
涼介は恥ずかしそうに言った。
言われた言葉の意味がすぐには理解できず、文太はライターを片手にしたまま、自分の目の前で恥ずかしそうにしている涼介をじっと見た。何言ってんだ、アンタには立派なオヤジさんが居るだろうがよ。ごくごく当たり前の返しをした。というより、それしか出来なかった。
ええ。居ます。でも、オレはあなたの息子になりたいんです。オレは藤原が、拓海君が。死ぬほど羨ましい。
死ぬほど羨ましいなんて言葉は滅多矢鱈と使うものではないのに、涼介はそれをあっさりと口にした。艶のある声はどこか思い詰めたようで、顔から笑みは消えていた。
こんなオヤジの何処が羨ましいもんか。たかだか寂れた豆腐屋で、食ってくのがやっとだ。かみさんには逃げられるし今時大学も行かせてやらねえような親だぞ、と文太は苦笑した。
いえ、オレは羨ましいんです。だってあなたは、オレの理想の父親ですから。ずっと、理想の父親を探していたんです。あなたはオレの理想そのものです。涼介は首を横に振った。
理想? 何処がだ。文太はますます訳が分からなかった。
涼介と、その弟の啓介は医者の息子だといっていた。渋川の豆腐屋でも知っている、高崎にある大病院の院長。そっちの方が余程理想的なのは、誰の目にも明らかなことだった。
いきなり、涼介がその場に跪いた。そして文太に手を伸ばしてきた。それも股間に。細く長い指で文太のスラックスの股間に触れ、無遠慮に形を確かめるようになぞる。
オレはあなたの息子になって、こういうことをしたいんです。言いながら、涼介は文太の股間に顔を寄せようとした。
何しやがる! 文太は叫んだ。昔の癖で無意識に脚が出て、涼介の肩を思い切り蹴り飛ばしていた。
涼介は汚いアスファルトの上に倒れた。うっ、と涼介が唸った。
何処触ってんだ。てめえ。自分ちのオヤジさんにその頭ン中診て貰え! 倒れた涼介を文太は睨み、強い口調で叫んだ。
文太の後ろの、ほんの数メートル先の大通りを歩く人は多いのに、誰もどうしたんですかとは言ってはこない。夜の繁華街は他人に無関心な人間の集まりだ。
オレはあなたの、息子になりたいんです。
蹴られた肩をさすりながら、涼介が身体を起こした。白いワイシャツの肩のところに、文太の靴の痕がくっきりと残っていた。
お願いです、藤原さん。オレをあなたの息子にしてください! あなたをお父さんと、オレに、呼ばせてください……。
涼介は、今度は文太の脚に縋りつき、文字通り哀願した。
ぎゅ、と力強く文太の両脚にしがみ付いた涼介は、泣いているような声だった。
お願いです……お願いですから……。
文太の膝下に顔を埋め、涼介は小さな子供が駄々をこねるようにしがみ付き、お願いです、を何度も繰り返した。
おい、離せ。嫌です、離しません。離せっつってんだろうが。嫌です。離しません。
不毛なやり取りが何分か続いた。文太が涼介の頭を拳骨で小突いたが、涼介はますます文太の脚にしがみつく腕の力を強くするばかりで、埒が明かない。何だコイツ……文太は自分の足に意地でも縋りつく、息子志願の男に困惑した。
ああ、うるせえ。わかったから。とりあえずその手、離せ!
文太はとうとう根負けした。涼介の頭を小突く代わりに、砂埃を払ってやりながら言った。さっき蹴飛ばした時に、綺麗な黒髪についた砂埃だった。
こんなとこじゃ何時までたっても堂々巡りだ。場所変えるぞ。ウチに来い。場所は分かるな。オレが先に出るから、五分待て。五分したら来い。いいな。
そう文太が言うと、二本の脚は涼介の腕からようやく解放された。
わかりました。必ず、五分したら後を追います。
嬉しそうな声を背中に聞きながら、文太は薄暗い小路からようやく抜け出せた。明るい大通りにでた瞬間、はあぁ、と大きく深呼吸ともため息とも取れる大息をついた。
そもそも一体なんなんだ、アイツは。文太は軽く混乱した。この間拓海が連れて着たときは、随分賢そうなお坊ちゃんだと思ったのに。
さて、これからどうするか。いっそこのまま家には帰らず、バックレるか。大通りを歩きながら煙草に漸く火をつけた文太は、涼介から解放されたいが為に言ってはみたものの、どうしたものかと悩んだ。涼介から逃れたいが為に何処かに身を隠すとして、しかし明日の朝も豆腐を作らなくてはいけないから何れは帰らなくてはいけない。あのホテルの券でも渡して、ホテルの前で待ちぼうけを食らわせるほうがましだったか、とも思った。
アイツは普通じゃないな。涼介のことはそう確信したが、しかしだからこそたちが悪い。あの様子では、それが例え自宅の前でもホテルの前であっても、下手に待ちぼうけを食らわせたら、それこそ何をするか分かったものではない。
拓海はイツキとかいう同級生の家に泊まりに出かけていて不在だ。明日の朝、配達までには帰るといっていたが。
ああ、どうしてこんな日に。まったくアイツは、ボーっとして頼りにならない息子だ。毒づきながら、文太は仕方なく自宅に向かった。
繁華街を抜け、商店街にさしかかり、半分歩いたところで振り返った。
このまま来ないでくれればいいんだがな……。
来るだろうなァ、きっと。あの様子じゃ。
困ったように肩を竦めると、はるか遠く人気の少ない商店街の入り口に、背の高い白いワイシャツが見えた。
(続く)
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