つじぎみ・むすこ(中編)



普段は無口で無愛想で頑固。欲が無いのか世渡りが上手くないのか、お金はそんなに無い。ぶっきらぼうだけれど愛情深く、優しさを見せるタイミングは絶妙。
車には造詣が深い。運転だって勿論上手いし自分で弄るのも得意だ。どちらも自分はまだ到底足下にも及ばない。
車と同じくらいお酒とタバコが好きで、口寂しいとタバコを咥え、晩酌を欠かさない。幾ら言っても、どちらの量も減る気配は無い。
暇があれば店の奥の居間で昼寝をするか、愛車を弄っているか。
愛車は古い形式のものだけれど手入れを欠かさないお陰で、そこいらの最新式の車よりよっぽど早い。でも遊びのための車ではなく、仕事の配達のためのものだ。たまに自分も配達に付いていく。ナビシートから、運転している真剣な横顔を見るのが大好きだ。シフトチェンジの鮮やかさもアクセルワークの巧みさも見逃せない。
住まいは昔ながらの商店街にある、店と自宅を兼ねた狭くて少し古い二階建て。そこに二人で暮らす。母は、何時からか居なかった。 晩酌をしながらスポーツ中継を見ているときが一日で一番楽しい、と言う。お酒が入っていつの間にか寝入ってしまうのはしょっちゅうで、そんなときは自分が布団をかけてあげる。



大好きな大好きな、オレの“お父さん”。




アニキ、何をにやにやしてるんだよ。
リビングのソファで物思いに耽っていたら、いきなり頭の上から降ってきた弟の声。涼介は教科書の上に重ねて広げていた、宝物のメモノートを教科書と一緒に閉じた。見上げれば何時の間に二階から降りてきていたのか、啓介が不思議そうな顔をして覗き込んでいた。
この間の講義の時に、教授が面白いことを言ったんだ。メモノートごと閉じた教科書を指差して、軽い嘘をつく。ふーん、と啓介は首をかしげ、オレちょっと出かけるわ、と部屋を出ていった。

折角の妄想を邪魔され、涼介はあまりいい気がしなかった。再び教科書にはさんだメモノートを開き、涼介なりに推敲を重ねて出来上がった“お父さん”の設定を書き記したページを何度も読み返す。覚えるほど読み返しても、飽きることは無い。
妄想の中の自分は、自営業の、無口で車が好きな父と二人暮し。住まいは昔ながらの商店街にある古い店舗兼住宅、あまり裕福ではないけれど、父に愛されていてとても幸せだと思っている。
現実は、医者の両親と弟の四人暮らしの裕福な医大生。普通は妄想のほうがお金持ちなのだろうが、涼介の場合は逆だった。
幼い頃から、涼介は彼にとっての理想の父を求めていた。現実の“父”は社会的地位も見識も高く、人並みに涼介を可愛がってはくれた。が、涼介はどうにもそれを受け入れられなかった。
たまに父と食卓を共にしてもどこかぎこちなく、頭を撫でられても膝に乗せられても何か違う、と思っていた。疑われない程度に嬉しい素振りくらいはしたけれど。
だから大学生になった現在でさえ、涼介は父にも母にも敬語だ。とうとう23の今になるまで、弟の様にふざけて父に纏わり付くような甘え方も、駄々をこねることも、グレて困らせるようなことも出来なかった。
友人の家に行くと、その家ごとに多少家庭事情は違えど、彼らの父は父として存在していた。何のためらいも無く父とふざけあったりじゃれあう友人の姿にビックリしたことを覚えている。自分の家とは違う、と思った。
幸いなことに金銭面では不自由した経験は無い。大学に合格した時、父に入学祝は何がいいんだと聞かれ、白いマツダのFCで峠を走りたいとだけ言ったら、次の日にはディーラーがカタログを片手にやってきて、お父様にお代は頂いていますからどうぞ、というような家だった。


現実が違うなら、どんな父が良いか。
いつしか涼介は理想の父――お父さん――を夢見るようになり、自然にノートにペンを走らせた。
現実の父とは反対の人。
饒舌で、変に理屈っぽく、ステイタスで車を選ぶくせに運転が下手で、実の息子を可愛がってもそっぽを向かれる現実の父。
理想の“お父さん”は、無口で、車に興味を持っている自分が憬れ、目標に出来るような人だ。車も、古くても大切にしている。頑固だが愛情深い。
必要も無いのに見栄で建てた、ただ広いだけの現実の住まいは、寂しいし移動に疲れるし、家政婦の掃除の行き届かなさを嘆くだけだ。だから理想は狭い家がいい。そこで”お父さん”と濃密に暮らしたい。母は……別にいなくていい。現実の”母”は、働く女性のお手本のような良妻賢母を演じるが、いい年をして息子の自分と代わらぬ歳の男を作っているような女だからだ。
理想の”お父さん”、そして”お父さん”との暮らしは、やがて涼介の中で具体的なイメージを帯びてきた。
テレビドラマによく出てくるような、昔ながらの商店街。その中ほどにある、店舗兼住宅の狭い家。お父さんは何か商売を営んでいる。
店は暇な時間で、お父さんは店の前で愛車の手入れをしながらタバコを咥えている。
お父さん、今日何本目ですか。涼介が声をかけると、振り返って、うるせえと呟き、大きな手がくしゃりと涼介の頭を撫でる。優しい手だ。ご飯が出来ていますよ、お父さん、と頭を撫でられながら言うと、お父さんは頷く。
小さな食卓をお父さんと囲む。付けっぱなしのテレビからはお父さんの大好きなスポーツ中継。今日弄っていた車の、まだ交換には早いように思われた部品のことを尋ねると、お父さんは澱みなくその理由を答えてくれる。無口なお父さんだけれど、車のことはたくさん語ってくれる。お父さんの低い声が素敵だ、と思う。
嫌いなものを残す涼介に、お父さんは涼介ちゃんと食え、だからお前は細いんだ、と叱る。仕方なく口に運ぶけれど、お父さんだって自分の嫌いなものを残しているのを見つけて――。
理想の“お父さん”について書き連ねたメモノートを見ながら、そんな妄想に浸っている時間は涼介にとってなにものにも変えがたいものだった。愛車で峠を攻めている時と同じか、それ以上の高揚感が味わえた。
眠る前には、理想のお父さんについて書き記したメモノートを枕の下に入れ、お父さんにおやすみなさいを言って眠る。

涼介の夢にはよく、お父さんが出てきた。


一緒に配達に出かける夢が多かった。もう23にもなるのに、配達途中にお父さんにアイスクリームを買ってもらって、小さな子供の様に喜ぶ。頭一つ分、涼介のほうが大きいのに。
ゆるいカーブが続く峠で、ナビシートで眠ってしまった涼介の前髪をかき上げるお父さん。
そして、車は木陰に停まる。優しい唇が下りてきて、首筋に口付けられ、シャツのボタンを外され、素肌に武骨な手が触れる。涼介は薄目を開ける。今朝もしたのに、と涼介が言うと、お父さんはニヤッと笑う。
涼介は、お父さんとの肉体関係も夢見ていた。

いつだったか、赤城の山に、マナーの悪い人間が捨てたアダルト雑誌やゴミが散乱していたことがあった。涼介の指示でレッドサンズ総出でそれらを拾い、しかるべき集積場に持ち込んだ。その収集作業の際、涼介が目にしたのは、濡れて波打ったある雑誌だった。所謂男性の同性愛者向けの雑誌で、開きっぱなしで雨に濡れたグラビアページは父と息子、という煽り文句が入っていた。四十台半ばの父親と大学生の息子という設定らしく、運転席の父親が、ナビシートに眠る息子の服を脱がせていた。ほんの十秒ほど目にしただけで、隣に居た啓介がキモい、と言ってすぐに拾ってゴミ袋に入れてしまった。
あの雑誌を見た瞬間、涼介の背筋を何かが這い上がった。涼介の中にあるスイッチが入った。
妄想の中で、お父さんと仲良く暮らし、なおかつ身体の関係もある――そういう図が出来上がった。
お父さんとの淫らな妄想で下着を汚すことは何度もあった。
女性の裸ではなく、お父さんとの行為を想像して自慰をするようになった。


まだ見ぬ、どこかに居る、自分の理想のお父さん。
いつか出会えると、涼介は信じていた。


理想のお父さんは、思わぬところに居た。
秋名のハチロクこと藤原拓海を、粘り強い交渉の末、涼介率いる県外遠征チームに参加させることに成功した。涼介の走り屋人生の集大成ともなるこの一大プロジェクトには、弟の啓介と同じくらい、藤原拓海は欠かせない人物だった。涼介の無敗神話を破った高校生だ。
彼が駆る車が、父親の持ち物でしかも商売に使っているものだというので、まだ未成年の拓海を連れまわすことと車を使わせてもらう許可を貰いに、拓海の父親に挨拶に行くことになった、春とはまだいえない肌寒い日の昼下がり。
涼介と啓介と拓海は、拓海の家に続く古い商店街のなだらかな坂道を三人で歩いていた。


藤原のお父さんはどんな人なんだ? 
涼介が尋ねると、拓海はそうですねえ、うーん、と少し考えてから言った。
普段は無口で無愛想な豆腐屋のオヤジですよ。昔は走り屋だったみたいです。暇さえありゃ昼寝してるかハチロク弄ってるか……毎晩晩酌して、ヘビースモーカーで。とうふ屋っつったって商売下手なのかカネは無いからウチ貧乏ですよ……あれ、何かしょうもないオヤジみたいですね、これじゃ。
拓海は自分で言って、あはは、と笑った。確かにそれだけ聞いたらマダオじゃねーか、と啓介が拓海の肩を叩き、マダオって何ですか? と拓海が啓介に聞き返していた。
涼介は拓海の言葉に、衝撃を受けた。
鼓動が早まり、掌に汗を掻くのを感じた。
うちはオヤジと二人暮しなんですよ。拓海は啓介と話を続けていた。へえ、おふくろさんは? 死にました。オレが三つの時に。
普段は無口で無愛想な父親が、ハチロクがブローしたときに呼びもしないのに駆けつけてくれたこと、自分のせいではないと叱らなかったこと。
心臓をバクバク言わせている涼介のことなど知らない拓海は、同じくそんなことなど知らない啓介に自分の父親のことを語っていた。拓海にしては口数が多かった。ここに来る前のファミレスですっかり啓介と打ち解けたからだろうか。
それらを聞きながら、涼介は、拓海が自分のあのメモノートを覗き見たのではないかと一瞬疑ってしまった。なぜなら、拓海が語った父は、涼介の理想のそれと全くたがわぬものだったからだ。
――藤原の父親は、きっとオレの理想の“お父さん”だ――
涼介は確信していた。
涼介が夢にまで見た理想の人。その人が、現実に居た。
それも、涼介を唯一打ち負かした少年の父親として。

ウチのオヤジは医者だけど車のことはからっきしだぜ、なあアニキ? 聞いてる? アニキ? 
啓介に言われても、涼介は上の空だった。
あ、あれです。あれがウチです。拓海が指差したのは、 寄り添うように立ち並ぶ商店街の、店舗兼住宅の中の一軒。黄色い庇看板に、藤原豆腐店と書いてある、二階建ての店舗兼住宅。店の前にはハチロクが停まっていて、その前に中年の男が立って、タバコをふかしていた。
涼介の鼓動が更に早まっていく。喉が渇いてきた。
歳相応の渋さを漂わせた、髪に白いものの混じった痩身の目の細い男。
オヤジ、と拓海が呼んだ。

拓海、そちらさん方は? 拓海の父の文太は、火の付いた煙草で息子についてきた、知らない男二人を指した。


初めまして、お父さん。高橋涼介といいます。

みつけた。

上ずった声で文太に挨拶をしながら、涼介はずっと探していたパズルのピースを見つけて嵌め込んだ時のような充足感を覚えていた。
ピーコートに隠された下半身が、硬く勃起していた。

あの日、拓海を預かることとハチロクを弄らせてもらうことを話しに行ったはずだが、何を喋ったのか涼介ははっきり覚えてはいなかった。
抱いてくださいなんて、いきなり口を滑らせるようなヘマはやらかしてはいないようだったが。
ただ、文太をじっと見ていた。その姿を目に焼きつけ、声を覚えた。吸っているタバコの銘柄も覚えた。すれ違った時の体臭も覚えた。

その日の夜、自宅でした自慰が、それまでで一番興奮したのはいうまでもない。文太の姿を、声を、匂いを思い出し、文太に抱かれる妄想で何度も達した。双柔が痛くなるまで吐精し、声を枯らした。



文太に蹴られた肩が痛かった。文太が立ち去った後、汚いアスファルトに座り込んだまま、繁華街をぼおっと眺めながら、涼介は夢にまで見た理想のお父さんを得られるという期待と高揚感に、顔が知らずに緩んでいくのを覚えた。
お父さん。
小さく呼ぶと、さっきまで縋っていた文太の、デニム越しの骨ばっていそうでしっかりと筋肉の付いた脚の感触が甦ってくる。怒鳴られる声も良かった。お酒とタバコと、あの年代の男性特有の軽い体臭。頭の砂を払ってくれたときの、大きな手は温かかった。
お父さん、オレ、あなたをずっと探してたんですよ。お父さんは知らないだろうけど。
あなたの息子に成りたくて、ずっとずっと、夢にまで見ていたんですよ。ひとりごちて、涼介は立ち上がった。腕時計を見ると、約束の五分が経とうとしていた。



藤原のオヤジさんを呼び出してくれないかな、と史浩に持ちかけたとき、幼馴染の史浩は不思議そうな顔をしていた。この通りに言えばいいからと、先ほど史浩が文太を呼び出したときに言った口上を書いた紙を渡すと、お前、熱があるんじゃないか? と本気で心配された。 熱は無いよ。史浩が出来ないならいいよ、その代わり啓介にあのコト言うけどな。
長い付き合いで、史浩の弱みは握るまでも無く涼介のところに勝手に転がり込んできていて、脅しの材料はたくさんあった。わ、わかったから! しょうがねえなあ! 急に慌てだした史浩に、涼介はそうこなくちゃな、と涼しい顔で微笑み、啓介の部屋から拝借してきた、ラブホテルの無料券を史浩に握らせた。



まだ肌寒い夜の道を、ふらふらと吸い寄せられるように涼介は歩いた。
目指す先は、藤原豆腐店。
下半身はもう疼いていて、痛い程に勃起している。
文太に蹴られた時、不覚にも勃ってしまったのだ。
お父さんの息子にして貰うんだ。そして、抱いて貰うんだ。
涼介は決意していた。


商店街の入り口に差し掛かった。何処の店ももう明かりを消してはいたが、古い街灯がついていて意外と明るい。
ゆるい上り坂の中ほどに、庇看板の明かりを消した藤原豆腐店が見えた。その前には、涼介の憬れのお父さんが、シャッターを開けようとしていた。











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