つじぎみ・むすこ(二度目編)



夕暮れはいつの間にか夜に取って代わられ、辺りはすっかりと暗くなった。
年末に比べればだんだん日も長くなっているが、それでもまだまだ物足りない。
煌々としたガソリンスタンドの明かりの下、目の前の道路を行き交う車のライトのまぶしさに、拓海は立ったまま目を細めた。客待ちは退屈で仕方なかった。
「今日は暇だな、拓海ぃー」
拓海の隣で、イツキがおおきな欠伸をかみ殺した。
「そーだな……ま、今日はポイントも倍じゃないし平日だし、値上げしたばっかりだしな……」
土日は目が回るほどの忙しさだが、平日は比較的暇だ。これにポイント加算日が重なると、文字通り忙殺される。
「なあ、拓海ぃ。高橋涼介が倒れたその後、どうなってんだ?」
「どうって……別に、そのままだよ。特に進展はないよ」
「……そうなのか? お前、高橋涼介のチームに正式に入ったんだろ? 県外遠征大丈夫なのか?」
「大丈夫かって訊かれても……それはオレにもわかんないよ……」
困ったな、と拓海は頭を掻いた。
涼介が倒れたことで、現在は史浩がとりあえずの陣頭指揮をとっている。それでも涼介でなければ決められないことが多く、色々と滞っているらしいことは確かなようだ。
ケンタたちの様に元々レッドサンズのメンバーでもない、県外遠征チームのドライバーとはいえ、まだゲスト的な存在である拓海には、その辺りの事情は、外野よりほんの少しだけ詳しい程度だ。
「イツキが知ってることくらいしかオレも知らないよ。一回、涼介さんちに見舞いには行ったけどさ」
「へぇ、行ったんだ」
「ああ、だいぶ痩せてたなー……」
見舞いといっても、啓介に連れられての見舞いだった。差しさわりのない会話を交わし、涼介には自分が不在の間に予定されているプレ戦に全力で挑めと言われただけだった。


不意に拓海君、と女性の声で呼ばれ、二人して声のする方を向いた。
「あ、女将さん……」
文太が馴染みの、近所の飲み屋の女将が着物姿でスタンドの入り口に立っていた。買い出しの途中なのか、スーパーの袋を手に下げて。 文太が毎週水曜になると、ツケで飲みに行く馴染みの店だ。
「こんばんは。さっき拓海君ちに寄ったんだけど、文太さんいないみたいなのよぉ」
「あ、そうなんですか……オヤジに何か」
「女将さん、どうも」
「あらイツキ君お久しぶり、……あのねぇ、この間これを文太さんが店に忘れていって……」
ねっとりとした喋り方で、片手にスーパーの袋を手にしていた女将は、もう片方の手に持っていたものを拓海に差し出した。
「あ、オヤジの……」
文太がよく着ているジャンパーだった。
「最近着ていないと思ったら……」
「先週、だったかしら。お店で飲んでたんだけど、誰か知り合いの人が来たみたいで、これ忘れて一緒に店を出てっちゃったのよ」
「あっ、すみません、わざわざ……」
恐縮して受け取ると、女将は「いいのよ、どうせ通り道だし」と手を振って笑った。
「文太さん、なんだか難しい顔してたから声掛けづらくってさ」
「……はあ、」
「ずいぶん若い人が文太さんを迎えに来たのよ。拓海君よりはちょっと年上の人ね。この辺じゃ見ない顔だったわ」
「若い人? ……誰だろ」
「拓海の親父さんにそんな若い知り合いいたっけ?」
「いや……いないと思うけど」
文太の飲み友達なら同世代かその上だと相場は決まっている。商店街の若い跡取なら女将も知っている筈だ。女将の言うような相手に心当たりがなく、拓海は首を傾げた。手にしたジャンパーは冷えていた。
そういえば、と拓海には心当たりがあった。


(オヤジ、なんか……最近考え込んでること多いよな……)
店番をしながら、物思いに耽っている文太をここ最近、よく目にしていた。てっきり店の経営状態が悪いのかと思って、文太のいない隙にそっと店の帳面を捲ったが、そうでもなさそうだ。
(関係あるのかな、その呼びに来た人と……)
じゃあ文太さんによろしく、と言い残し去っていく女将に頭を下げながら、拓海の心には一つの疑問が形となっていった。


青白い顔が、少し高いところからじっと文太を見つめていた。
それを言葉として聞くことに、はたしてどれだけ意味があるだろうか。一縷の望みを絶たれた事実を、ただ明らかなものにしてしまうだけかもしれない。
「お前はオレを、諦めちゃいないんだな?」
少しだけ顔を上げて、睨むように涼介に問うた。
涼介はきょとんとしたが、すぐに笑みを作り、「はい」と頷いた。



二人の足下では、暇を持て余した犬が伏せていた。

今日、会った瞬間から分かりきっていたことだ。涼介は文太の訪問を受け入れ、喜び、文太をまだお父さんと呼んでいるのだから。
「あなたのことを、諦めるつもりなんて毛頭ありません。今日は本当に嬉しかった……オレにわざわざ会いに来てくれて、食事まで作って…」
「ふざけんな!!」


涼介の言葉を遮ったのは文太の怒号だった。
反射的に涼介が身を震わせ、冷えたガレージの空気がびいん、と反響した。

「てめぇ、まだ懲りてねぇってのか!」


「……お父さん……」

犬が驚いたように顔を上げた。
「懲りてなんか……いません」
涼介は怯みながらも答えた。
雑炊で暖まった身体が、じんわりと冷えてきた。背筋に寒いものを感じながらも、目の前で怒鳴る文太から目をそらすことはなかった。
「あなたにあの日みたいに蹴られたって、オレはあなたを諦めません。あの日言ったことが全てです。オレには、あなたしかいないんです……」
「余所を当たればいいだろう。車が好きで酒も好きで、男も抱けて、オヤジと呼ばせてくれるような物好きなんざ群馬中探せばいくらでもいるだろうがよ」
「いません、あなたしか……」
「オレはお断りだってんだ! こんなモンまで事細かに書き連ねやがって……」
デニムの尻ポケットから出したものを、文太は突きつけた。
先ほど、涼介が眠っている時に彼の枕の下から見つけた、涼介が大切にしているメモノートだ。
「あ、……」
それを文太が持っていることに、涼介は驚いた。
「他を当たれよ。お前の酔狂に付き合ってくれる物好きなオトコを他で探せってんだ!」
文太の手から、ノートが滑り落ちた。
ぱさり、軽い音を立ててノートはコンクリの床に落ちた。
「……じゃあ、どうして来てくれたんですか……」
「……」
「ご存知ですか、お父さん。好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心なんですよ。嫌いは、好きと同じ側に属している感情なんですよ」
床に落ちたノートに一瞥をくれると、涼介は文太を睨んだ。
「なにを藪から棒に…」
「今日、わざわざここまで来てくださって、食事まで作って下さって、……それは、オレの思いを受け入れるお気持ちが、少しでもあるからじゃないんですか……? 本当にオレが好きじゃないんなら、来ない筈です。オレのことを確かめに来たと仰いましたよね、それはオレのことがあなたの心のどこかにあるからじゃないんですか」
「あ……?」
理路整然とした言葉は、だがしかし、寒さと、再び思いを跳ね除けられた悲しさに震えていた。
「オレのことが嫌いで構いません……オレは、お父さんが振り向いてくれるまで、ずっと待ちますから」
「……ふん、そんなこと、天地が引っくり返ったってあるもんか」
文太は吐き捨て、踵を返した。
ハチロクの運転席に回り、キーを差し込もうとした、その時。
「帰らないで下さいっ!」
病人とは思えぬ強い力で、涼介が叫び後ろから抱きついて来た。
「まだ居てください、お願いします!」
「離せっ、おい!」
「いやですっ!」
強い力だった。
細い、痩せた腕が文太の腹に回され、薄い胸板が背中に当たっていた。
「話がっ、終わってません!」
「何が話だ! オレはお前なんざ受けいれるつもりはねえんだ! 諦めやがれっ、この……ッ」
「やだ……」
涼介の腕の中、文太はもがいた。
上背では涼介が勝っていたが、腕力では文太が遙かに上だ。おまけに涼介は病んでいる身だ。
「離せッてんだ!」
どすんと鈍い音がし、涼介の手が離れた。
文太が彼の腹に肘鉄を食らわせたのだ。モロに喰らい、涼介はその場に膝を折って崩れた。
「……が、ぁ……」

「いい加減にしろ!」
先程より厳しい怒鳴り声が降って来た。
「ぁ……」
涼介は腹を抱えて蹲り、痛みに耐えた。



文太が飛び乗ったハチロクがエンジンを掛け、ライトを点し、唸りをあげて急発進した。

「諦めませんからっ……!」
涼介が叫んだのと、ハチロクがクラクションを鳴らしたのは同時だった。

闇の向こうへと走り去ったハチロクのテールランプを、涼介は冷たいコンクリートに蹲ったまま、呆然と眺めていた。


くぅん、と鳴く声に、涼介は顔を向けた。
愛犬が、落ちたノートをくわえて涼介に差し出していた。
「ああ、ありがとう……ジョン」
ノートを受け取って、愛犬の頭を撫でた。
「また、断られちゃったな……」
それでも、抱きついた瞬間の文太の体温は、匂いは、感触は、彼の心を満たして余りあるものだった。
「……今度は、……泣いたりしないからな……」
愛犬と額同士を合わせ、涼介は自分に言い聞かせるように呟いた。

二度目も、文太に断られた。

思いを受け入れられることはなかった。


行きの半分の時間で戻ってきたのは、やけっぱちに飛ばしたせいだ。それが証拠に、途中で何回か、対向車にクラクションを鳴らされた。 卓袱台の上に、乱暴にハチロクのキーを投げつけながら文太は舌打ちした。派手な音を立ててキーが跳ね、卓袱台に傷がついた。
「畜生っ……!」
無体なことなどしたくはなかったのだ。
けれど、彼の態度がそうさせた。
言うとおりに自分を諦めてくれさえすればよかったのに、その思いを更にに深いものにしていて。
諦めませんから。
「なにが諦めません、だ……」
涼介が叫ぶ声は聞こえていた。
「くそっ……」
苛立ちが収まるわけもなく、台所で冷蔵庫からビールを取り出し、一気にあおった。
背中には、あの細い身体の暖かさが。
腹には、あの細い手の感触が。
まだ残っているようだった。
そしてあの言葉。
好きの反対は無関心だと。
つまり、涼介が気になってあの家に行った自分は、涼介を受け入れるつもりなのだ、と。
「何てヤツだ……」


「ただいまー」
気の抜けた声がして、裏口から拓海が入ってきた。
「――拓海か」
「オヤジ、どっか行ってたんだろ」
「あ? ああ……」
スタンドの制服の入った紙袋を手に、拓海は不思議そうな顔をしていた。
「さっきオレが手ぇ振ったのに、無視して飛ばしてやがんの、冷てぇ」
「どこでだ」
「山下病院の前だよ、拾ってくれりゃよかったのに……」
歩きは辛いんだぜ、と唇をとがらせる拓海に、「夜だしあの辺りは暗いから見えないんだ」と言い訳をしたものの、そんなものにかまう余裕もなく高崎からここまで飛ばしていたのだ、たとい明るくとも見えてはいなかっただろう。
「はい、これ」
ほら、と拓海が差し出したのは、あの日例の店に忘れていったジャンパーだ。
「……どうしたんだよ、これ」
「オヤジ、志美壽に忘れてったんだろ。さっき志美壽の女将さんがスタンドに届けてくれたよ」
「……そうか、ツケ払いにいかねえとな……」
「誰かが来て一緒に出ていったから忘れたとかいってたけど……」
「……」
史浩のことだ。
あの日のことを今日のことの上にまた思い出さされるようで、文太の顔が険しくなった。
「誰?」
「知り合いの息子さんだよ」
「……そうなの?」
「ああ、」
拓海から受け取ると、文太はそれを部屋の隅に投げ捨てた。
「拓海、酒のツマミがねえからなんか買ってこい」
「ええっ、オレ寒いから早く風呂入りたいんだけど」
「秋名ホテルの前のコンビニなら近いだろ。落花生でいいから買ってこいよ、ほら。お前もジュースでも買え」
「えっいいの……じゃあ行ってくる」
千円札を無理に握らせて、帰ってきたばかりの拓海をまた追い出した。
「今畜生ッ」
そして、一人になるとそのジャンパーを忌々しげに踏みつけた。


大学の友人と遊んだ啓介が帰宅したのは、日付が変わる少し前。
両親は仕事で今夜も不在だ。涼介のことがあるから、出来るだけ早く帰宅するように、なにかあったらすぐに連絡するようにと父からメールが来ていた。

(アニキはどうせまだ寝てんだろうな……)
出来るだけ早くに戻りたかったが、友人のところでつい話が弾んでしまい、こんな時間になったのだ。
「――あれ」
リビングに入ると、キッチンとリビングのライトが点っていた。リビングの隅のゲージにいる愛犬も起きている。
(家政婦さん、電気消し忘れたかな)と思いながら、
「こら、ジョンもう寝ろよ」
犬の頭を撫でて構ってやってキッチンに入ると、啓介は予想外の光景を目にした。
「……ちょ、アニキ、なにしてんだよ!」
キッチンの床には、大量の空き容器が転がっていた。
冷蔵庫にもたれ掛かり、床に座るパジャマ姿の涼介が、見舞いにもらった焼きプリンを片っ端から食べているのだ。
「ああ、啓介か」
ちいさなスプーンを咥えた涼介が、啓介を見上げた。
「ア、アニキこれ全部食ったのかぁっ!?」
「そうだ」
「食いすぎだって! 胃がびっくりしちまうよ!」
啓介が食べているものをとりあげようとすると、涼介が「これはオレにもらったんだ」と抵抗した。
「そうだけど、砂糖と卵のとりすぎだろ! 量ってモン考えろよな! ……って、アニキ、……あ、アニキが食えてるっ!」
「ああ、もう食べれらる」
口のはしにプリンのかけらをつけて、涼介がにっこりと笑った。
啓介はしばらく口を開けたままぽかんとしていて、それからはっとして立ち上がると「オヤジとお袋に連絡しなきゃ!」とリビングに戻っていった。
「もしもし、岡田さん!? オヤジに代わって! そう、啓介!」
短縮で掛けたクリニックの院長室、控えていた運転手が出た。
「もしもし、オレ! あのさ、アニキがさ、……ちがうんだよ、飯っつか、プリン食ってんだよ、うん! それもすんごい量食ってんの!」
啓介が興奮気味に喋った。電話の向こうで父親が驚き、そうか、と喜んでいた。

電話をしている啓介の声を聞きながら涼介はプリンをほおばって、そして目を細めた。
「あなたが認めてくれないなら、認めさせるんだ……」
そのための手段を、涼介は思いついた。


どんな一日も時間が来れば終わり、また新しい一日が始まる。
今日も今日とて豆腐を作り、きまった仕事に精を出す。二十年近く続くこの仕事は文太なりのリズムがあった。
昨日あんなことがあっても、いつもと変わらぬ出来の豆腐をこしらえる。それが、仕事というものだ。
「おはよ……」
「おう、早く顔洗ってこい」
午前四時前、いつもより少し遅く起きた拓海に支度を促す。
配達先のホテルに渡す伝票をカウンターで整え、封筒に入れて拓海に渡した。
「これ板長に渡してくれ。あと来週の宴会の、湯葉と豆腐の数も聞いといてくれ」
「うん。あ、湯葉と豆腐と、生麩もいるっていってたな」
「じゃあそれもだ。……お前、夕べ遅くまで電話してたな。だから眠いのか?」
「んー……まあ、」
文太が酒を飲んで早々と部屋に戻った後、拓海が茶の間で誰かと長々と電話をしていた。切っては掛け、また掛かってきたりもしていたから相手は一人ではないようだ。進路の決まった身分だからとやかくは言いたくないが、電話代が気になった。
「涼介さんがさー」
「……あ?」
涼介の名が出て、文太の心臓が軽く跳ねた。
「ほら、涼介さんだよ、あの」
「あああの……兄弟で来た、」
「そう、倒れたつってたじゃん、あの人」
「――どうかしたのか」
こんな早朝から涼介の名を聞くとは思っていなかった。せっかく酒で落ち着けた心が、またざわつき始めた。

「なんか、メシが食えるようになって、復帰できる見通しが立ったって」

「……――」
文太の心にあった枷が、ふっと外れた。

「……ふん、そうか」
拓海に表情を隠すように、文太はカウンターの下を何かを探すふりをして覗き込んだ。
「それで電話が掛かってきて、オレがまたあっちこっちに連絡してたんだよ」
「ふぅん、連絡網か」
「まあね」
昨日、あんな風に振り切って帰ってきたから、てっきりまた寝込んだかと思っていたが、どうやら無事に復活したようだ。
(なんで安心してんだ、オレは……)
文太の身体には、まだあの涼介がすがり付いてきたときの感触が残っている。
(元に戻ったか……)
涼介はまだ文太を諦めてはいない。諦めさせる作戦は失敗に終わった。
もう一つ何かあるな、と――予感めいたものを抱いていた。このまま終わるような奴ではないだろう、と。

薄暗の中を走っていくハチロクのテールを見ながら、文太は思った。

あれは失敗だった、自分は負けたかもしれない、と――。


それから十日ほど後。
『高橋涼介』は、復活した。
涼介率いる県外遠征チーム『プロジェクトD』の非公式戦が妙義山で行われた。県外遠征の練習を兼ねたプレ戦だ。
相手は妙義ナイトキッズ他、妙義山をホームとするチームからの選抜。
非公式というふれこみではあったが、どこからと話が漏れたのか、夜の峠はプロジェクトDの一戦を見ようというギャラリーで溢れかえっていた。
「ポイントT、路駐はどうだ」
『こちらポイントT。まだ解消していません』
「頼むぞ、それが解消しないとバトルに入れないんだ」
トランシーバーで各ポイントに配置したオフィシャルと交信しながら、レッドサンズではなくプロジェクトDの外報部長となった史浩はため息をついた。
拠点になっている駐車場には、Dのステッカーを貼った遠征用バンが並び、ハチロクとFDがバトルに備えて最後の調整をしている。
その光景を、少し離れた場所から物珍しそうにギャラリーたちが見入っている。中には撮影しているものもいる。
「非公式の筈だったのにな」
史浩の傍で、レジャーベンチに座ってノートパソコンを膝の上に乗せている涼介が苦笑した。
「笑い事じゃないぞ、涼介……またく、プレ戦でこれなら本番はどうなるんだ」
史浩は額に手を当てた。
予想以上に人が集まり、オフィシャルの数が追いついていないようだ。仕切りのパイロンの数も足りていない。
スポンサーにはプロジェクトDが注目されているという良いアピールになるが、運営の見通しの甘さを指摘される恐れもある。
「そのためのプレ戦だ。本番ではオフィシャルを大幅に増やすしかないな。二軍から使えそうなやつを選抜するか」
まだ少し頬がこけたままの涼介は、それでも幾分か肌艶も良くなり、大学にも復帰していた。
涼介が倒れた当初、今日のプレ戦の作戦はヒルクライムの啓介とメカニックの宮口、ダウンヒルの拓海とメカニックの松本に決めさせるという方向で仮に決まったが、復帰した涼介によってその作戦は大幅に修正された。
「啓介は兎も角、藤原はまだまだ……勉強させる余地がありすぎるな」
涼介は脇に置いたレポート用紙を見て目を細めた。
拓海に出させた、今日の作戦についてのレポートは殆どの場所に涼介によって赤で取り消し線が入れられ、二、三箇所だけ丸がついていた。
(……アイツはお父さんの”息子”なのに、本当にまだまだなんだな……)
文太の顔が涼介の脳裏を過ぎる。頬が赤らむのを抑えることが出来ず、涼介は俯いた。
「……」
トランシーバーを手に、史浩は涼介を横目で見下ろしていた。
あれだけ大騒ぎをして、倒れたかと思ったらあっさりと復活した。
あんなにやつれてしまい、大学にも通えなくなるほど寝込んでいたのが、復活した。アニキがメシを食えるようになったんだ、と啓介から興奮気味の電話を貰ったのは、十日ほど前の――史浩と松本が拓海の家に行った日の深夜だ。そのタイミングのよさに疑問を抱いた史浩は、後で高橋家の家政婦にこっそりと訊いた。涼介が食事を受け付けるようになった日、何かあったのか、と。
家政婦は当初いいえ何も、と否定していたが、史浩がしつこく問い詰めると、実はご主人様にも奥様にも話してはいないんですが――と、こっそり耳打ちをしてくれた。
あの日、拓海の父親――文太が涼介を訊ねて、高橋家に来たのだと。そして家政婦はすぐに帰宅時間になり、二人の間にどんな会話があったかは知らない、と。

(オレの思惑通り、どうやら二人で話し合ったみたいだけど……あの様子じゃあ、諦めてはいないな)
文太と涼介が話し合うように仕向けたのは史浩だ。そのように話は進んだようだ。焚き付けた効果はあったようだ。
が、
結果は史浩の、そして文太の思ったとおりになどいってはいないようだ。
涼介は妙に幸せそうで、浮かれているように見える。
とても文太を諦めたようには思えない。
文太と話し合った上で文太のことは断ち切って、新しい方向へ気持ちを向けて欲しいと願った史浩の作戦は、駄目だったようだ。
(何を考えているんだ、涼介……)
涼介はノートパソコンのキーを叩き、時折笑みを作っていた。

今日のバトルが終わったら、涼介は『計画』を実行するつもりでいた。






夕暮編/続く