つじぎみ・むすこ(夕暮編)
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自宅でも親類のでもない、全くよその家の台所は振る舞い方がいまいち掴めない。
よそで料理をするのは果たして何時以来のことか。
記憶を辿れば独身の頃、足を折って入院した政志が退院し、家に見舞いに行ったことがあった。それ以来だ。
あの時、腹が減ったからと冷蔵庫の残り物で焼き飯を作って二人で食べた。しかしよその台所はソースの場所もフライパンのありかも分からず、引っ掻き回してやっと道具と材料が揃ったのだった。
「……気乗りしねぇなぁ……」
呟いた文太の目の前では、真新しい土鍋の中で雑炊が出来上がりつつあった。溶いた卵を菜箸に沿わせて静かに回し入れ、刻んであったネギを散らした。
勝手など分からぬ、初めて訪れる他人の家の台所だった。
富裕な家である高橋家の台所は広い上に収納も機能的でふんだんで、政志の家の様に引っ張り探さなくとも良かった。
土鍋も材料もすぐ分かる場所に整理整頓されていて、あっさりと揃えられた。
手に馴染まない洋包丁と、やけに綺麗で大きな俎板が落ち着かなかっただけだ。
「オレってやつぁ……」
一人ごちて、コンロの火を消した。
土鍋に蓋をし、台所の隅に置いてあった折り畳みの椅子に座った。
「店まで閉めて、こんなとこにいるんだからな……」
腕組みをして唸るように、自分のしたことに苦笑した。ん、と咳払いをし、細い目を閉じる。
涼介が倒れたと聞いて、心が落ち着かなかった――認めたくは無いが、事実だ。
だから
わざわざ店を閉めて、30分以上も掛けて家を探し探し、尋ねて来た。
文太の前に姿を現した涼介は、噂に嘘偽り一切のない、文字通りのやつれ具合だった。医者ではない素人でも、ただ事ではないと分かった。
つまりは、それだけ自分に対して本気だということだ。倒れる程に。
「参ったな……」
あてつけの仮病が、百倍ましだった。
問題はそれだけではない。
涼介の為に飯を拵えて、それを食べさせ、さてそれからどうするか、だ。涼介は文太を諦めている様子はない。否、こじらせてさえいるようだ。
ここに来たからには、文太は涼介との間に何らかの決着をつけるつもりだ。
果たして、涼介に諦めさせられるか。
「ま……食わせてからの話だ、な」
勢いをつけて立ち上がり、カウンターに用意したトレーに鍋敷きを乗せ、土鍋を置く。蓮華と取り分け用の深い小皿をを添えた。
冷蔵庫に冷えていた、季節外れの麦茶をコップに注いでそれもトレーに置いた。
土鍋のせいでやけに重たいトレーを手に台所を出た文太は、リビングの隅でのそり、と何かが動いたのを認めた。
「……ん?」
すわ泥棒か、と目線を滑らせれば、灯りを消したリビングの片隅、写真立ての並ぶ飾り棚の下に犬……ゴールデンレトリバーの成犬がお座りをして此方を珍しそうに見ていた。
「なんだ、犬か……」
驚かせやがって、と文太が舌打ちをすると、ゴールデンレトリバーは匂いに誘われたのかこちらへのそのそと寄って来、文太の太腿の辺りをクンクンと匂い、鼻を鳴らした。
「こら、コレはお前のじゃねぇんだ……お前の飼い主のもんだ」
文太がトレーを上に掲げて脚で追い払う仕草に小首をかしげた大型犬は、ついと背中を向けた。先ほど文太が入ってきた部屋の入り口へと、やはりのそのそ歩き、ドアの前でまたお座りをする。
その動作に、案内か、と文太は犬の後ろに立ち、重厚な木製のドアを開けた。犬が先に部屋を出た。
廊下を斜めに横切ると、階段の手前にあるシンプルな扉の前でまたお座りをし、こちらを見た。
「そこにいるってのか?」
訊ねてみたが相手は人の言葉を喋らない犬、しかしくぅんとまた鳴いた。確か涼介は、自分が寝ているのはリビングの斜め前のゲストルームだと言っていた。場所としてはここだろう。
文太はその戸をノックした。
コンコン、と二度ノックした――が、中から返事はなかった。
また二度ノックしたが、同じだった。
仕方なくドアを開けて中に入ると、静かで暖かな、ホテルのようにシンプルな部屋が広がっていた。
「……寝てんのか」
文太はベッドの上を見て呟いた。カーディガンを肩に掛けたまま、涼介はベッドにうつ伏せになって静かな寝息を立てていた。
室内は、僅かに薬品の匂いが漂う。
「ふん……」
ベッド脇の小さなテーブルの上にトレイを置くと、文太は涼介の肩をゆすった。
「おい、……起きろよ」
メシが出来たぞ、と涼介に声を掛けた。とんとん、と細い肩を叩く。
しかし、余程深く眠っているのか涼介の反応はない。何度か繰り返したが、同じだ。
「……やれやれ……」
どうせ雑炊は熱すぎて直ぐには食べられないしな……と、文太はそこで涼介を起こすのを諦めた。
「手間掛けさせんじゃねえよ、ったく……」
肩を竦め、小さく呟いて、涼介の足元にあった毛布を、うつ伏せの身体に掛けてやった。
シーツを掴んだまま眠る涼介の白い手は明らかに痩せて、皮膚がかさ付いていた。
さっき玄関先で見たよりも近くで見ると、それは哀れをさえ催すほどのものだった。
「……」
そっと、その手の甲に触れてみる。
「がさがさじゃねえか……」
前に会ったときは、つやつやとして男前そのものだったのに。
湿った、涼介の黒髪の間に、ふけ状のものが見える。こんな体調では、入浴もままならないのだろう。
頬もげっそりとこけていた。眼窩が僅かに落ち窪んでいる。唇の色は、悪い。
ベッドの下に目をやると、空になった点滴の輸液パックが幾つか入った段ボールが目に付いた。
「バカ野郎が……」
こんな、四十を越した自分のような男に入れあげ、断られたからと言ってショックで体調を崩してこの有様だなんて、馬鹿にも程がある――と、文太はまた舌を打った。
「いい加減、目ぇ覚ませってんだよ……」
起きない涼介に、文太はそう呟いた。
ふと見れば、文太を案内した犬は部屋の隅に寝そべり、差し込む夕暮れを受けて飼い主と同じ様に目を閉じて眠っていた。
「ん?」
涼介が頭を乗せている枕の下から、何かがはみ出していた。
文太は吸い寄せられるようにそれに手を伸ばし、簡単に枕の下から引っ張り出せた――小さなメモノートだった。
「……ノート?」
勝手な盗み読みは悪いと思う気持ちもあったが、興味が先行し、文太はそのノートをパラパラと捲った。
几帳面な、細かな字でぎっしりとなにやら書き込まれていた。
(ああ……あの兄ちゃんが言ってたのはコレか……)
昼間、史浩が話してくれた、涼介が一心不乱に書いて誰にも見せなかったと言うノート。
自分の理想の”お父さん”について――。
最初のページの一番上に書かれた一行で、文太はそのノートの中身を理解した。
お酒が好き、タバコが好き、車に詳しい――最初の方のページには、条件らしきものが箇条書きされていた。
会社勤め、嫌煙家、など幾つかは二重線で消されていた。
どうやら思いついたときに思いついたことをつらつらと書いていったらしいそのノートには、涼介が理想とする”お父さん”の姿があった。
箇条書きのページが終わったかと思えば、短い文章で”お父さん”の一日のことが書かれていた。
『朝は早く起きて、仕事は自営業、暇があれば趣味の車いじりと昼寝』『車以外のことには無頓着で、趣味と言えるものはそれくらい。買い物に行こうと誘っても、出無精だから断られることが多い』
そのページが終わると、今度はもっと長い――物語のような、箇条書きの”お父さん”が動き出したような”自分”と”お父さん”のことが書かれていた。
なんでもない普通の日のこと。雨の日のこと。夏の日、台風の日、休日、二人でドライブに行った日、海に出かけた日……まるで本当に”お父さん”が実在しているかのごとく、詳しく淀みなく書かれていた。
「何だこりゃ……」
読み進めて行くうち、文太の顔が険しくなった。
書かれている”お父さん”が、まるで自分のことのようだったからだ。
普段は無口で無愛想で頑固。欲が無いのか世渡りが上手くないのか、お金はそんなに無い。ぶっきらぼうだけれど愛情深く、優しさを見せるタイミングは絶妙。
車には造詣が深い。運転だって勿論上手いし自分で弄るのも得意だ。どちらも自分はまだ到底足下にも及ばない。
車と同じくらいお酒とタバコが好きで、口寂しいとタバコを咥え、晩酌を欠かさない。幾ら言っても、どちらの量も減る気配は無い。
暇があれば店の奥の居間で昼寝をするか、愛車を弄っているか。
愛車は古い形式のものだけれど手入れを欠かさないお陰で、そこいらの最新式の車よりよっぽど早い。でも遊びのための車ではなく、仕事の配達のためのものだ。たまに自分も配達に付いていく。ナビシートから、運転している真剣な横顔を見るのが大好きだ。シフトチェンジの鮮やかさもアクセルワークの巧みさも見逃せない。
住まいは昔ながらの商店街にある、店と自宅を兼ねた狭くて少し古い二階建て。そこに二人で暮らす。母は、何時からか居なかった。晩酌をしながらスポーツ中継を見ているときが一日で一番楽しい、と言う。お酒が入っていつの間にか寝入ってしまうのはしょっちゅうで、そんなときは自分が布団をかけてあげる。
大好きな大好きな、オレの“お父さん”。
「……ッ、……」
文太は舌打ちした。
優しいだとか、愛情だとかは別としても、この条件は自分のことのようだ、と思った。
これを自分と出会う前に書いたのだとすれば……、このメモノートに書いた人との出会いを切望していたとすれば、確かに自分との出会いが運命だと涼介が勘違いするのも無理はないかもしれない。――所々褒めすぎな所もあるけれど。
息ついて、眠る涼介を見遣る。
静かな寝息を立てる涼介は、これを果たしてどんな思いで書いたのか。
「理想、か……」
譲れないものだと、泣きながら涼介が言った、理想の人。
条件は自分そっくりで、ゾッとさえする。
――短い時間だが、深く眠っていた。ふわりと浮遊する感覚と共に、涼介は目を覚ました。
「ん……」
涼介が瞼を開け意識を覚ますと、いい匂いが部屋中に立ち込めていた。
「あ、」
僅かに頭を持ち上げると、背中に掛けられた毛布がするりとシーツに落ちた。
「起きたか」
視線を彷徨わせていると、夕暮れを切り取った窓に背を預けて腕組みをして立っている人影が、声を掛けてきた。
「お……とうさん……」
声を上ずらせ、涼介はその人を見た。
そうだ、文太が――涼介が会いたくて堪らなかった文太が、自分に会いに来てくれているんだ――と思い出した。ぱあっと、涼介の顔に笑みが広がり、眠る前の興奮がまた涼介を包む。
腕組みをしている文太は、笑うでもなく怒るでもなく、窓の外を眺めていた。
「そろそろいい感じに冷めた頃だと思うんだけどな……飯、食えよ」
「……あ、は、い……」
そこ、と文太が指差した先のベッドサイドのテーブルの上には、土鍋とグラスの載ったトレーがあった。匂いはこの土鍋からだ。
「雑炊」
そのテーブルの前、つまり涼介の直ぐ傍に文太は歩いてきた。文太が土鍋の蓋を開けると控えめな湯気が立ち、いい匂いが更に濃くなった。
「ああ、いい感じだな……」
うん、と頷いて、土鍋からやや冷ました雑炊を蓮華で小皿によそう文太の横顔を、涼介はベッドの上に座ったままで見入っていた。
この間は怒鳴られた――怖い顔をして、水を掛けられたのだ。もう、会ってくれないと思っていた。
今、こうして目の前で自分の為に作ってくれた食事を、取り分けてくれている。
それだけで、涼介の心臓は高鳴った。
今にも、張り裂けそうだった。
「ほらよ」
ぶっきらぼうに差し出された、蓮華の突っ込まれた皿を、涼介は恐る恐る受け取った。
「あ、ありがとう……ございます……」
「味は薄いつもりだ」
そう言うと、文太はまた窓の所へ戻り、先ほどと同じ様に背中を預けて腕組みをする。
(お父さんが、作ってくれた……オレの為に……)
涼介は手の中の雑炊をまじまじと見た。
野菜と、文太特製の油揚げが小さく刻まれ、沢山入っている。
豪快そうに見える文太だが、意外と細かいところがあるらしい。
色も控えめで、いい匂いだ。
「……美味しそう……」
窓の外はゆっくりと夕暮れが近づいていた。
空の半分が赤く、青を侵食しつつあった。
食事らしい食事は何日かぶりだ。
蓮華で掬った雑炊を、涼介はふぅふぅと冷まして少し口に入れた。
丁度いい具合にぬるみ、味をたっぷり吸った米と野菜を飲み込んだ――途端、涼介の心が、満たされた。
「――とても、美味しいです……」
涼介が顔を上げてにっこりと微笑んだ。そうか、と文太は頷いた。
(……食えたな、)
無邪気に、小さな子供の様に微笑む涼介。
メシが食えないと言っていたが、自分の作った飯は予想通り効果があったようだ――それは別な見方をすれば、それだけ涼介の中で自分という存在が大きいということで――。
ともあれ涼介は美味しい美味しいを繰り返しながら雑炊を次々と頬張り、口の端に米粒をつけたまま嬉しそうに笑った。
「あんまり一気に食うなよ。胃がびっくりしちまうぞ」
折角食べられたのに、暫く働いていない胃袋に急に仕事をさせて戻す羽目になっては、元も子もない。
部屋の隅にいた犬が目を覚まし、涼介の方を向いていた。
涼介が食べる様子も見届けられ、やらなければならないことの一つは終えた。
「ちょっと、一服してくらぁ。病人のいる部屋じゃ吸えねえしな」
胸ポケットに手をやると、文太は涼介を残して部屋を出た。
「あ、……お父さん……」
その後姿を見送り、涼介は空になった皿に目を落とした。後を直ぐにでも追いたかったが、折角作ってくれたものをもう少し口に入れることにした。
文太が喫煙先として選んだのは、リビングでもトイレでもなく、ガレージだった。
広いガレージには文太が乗ってきたハチロクと、涼介のFCが頭を並べていた。
外は殆ど夜に近づいていたからガレージの灯りをつけ、FCの前で、胸ポケットから出したタバコを咥えた。数日ほど走らされていない白いサバンナは静かにその時を待っているように思えた。
「……なかなかいい車だな……」
手間隙と金を掛け、じっくりと仕上げた車だ。これだけの家のお坊ちゃまだから出来ることだな、と苦笑した。
ロータリーエンジン贔屓ではないが、涼介のFCは停まっている姿だけでもバランスがいい車なのが分かる。
走っている姿を見たことはないが、タイヤの減りや車高を見れば、日頃どんな走りをしているのか位は、文太レベルになれば容易く想像がつく。赤城の白い彗星だなんて大仰な二つ名に相応しい走りをしているようだ。
よくぞこの車に拓海は勝ったものだと感心した。
ハチロクは昼間に来た松本という整備士により、倒れる前に涼介が指示したという軽い調整が施された。
ここに来るまで走ったが、僅かな調整ながらなかなかのものだと思った。このハチロクをよく理解した上での調整だ。レース用のエンジンを積んだハチロクの調整はかなりの難易度だ。僅かな調整ですら、だ。それを的確に指示するのだから、大したものだ。
拓海が遠征チーム入りを決めてから初めてボンネットを開け、中を見せて貰ったと最初に会った日に言っていた。計算すれば三月ほど前だ。三月でこれだけ理解するとは。
「アイツは……頭は切れるが、感情がガキだな……」
車に関しては天才的だとも言っていい。なのに、自分に対してぶつけ来る感情は子供そのものだ。
白いボンネットにそっと手を置いた。冷たい金属の温度が、文太の手のひらに伝わってきた。
涼介の肌と同じで、かさついているように思えた。
「あの……」
後ろから、控えめな声がした。
振り返ると、ガレージの入り口に涼介があの大型犬を伴って立っていた。
「食ったのか」
「……半分、頂きました」
犬の頭を撫でながら、涼介が答えた。
「そうか」
流石に全部は無理だろうと作った文太自身思っていた。
半分食べられれば、御の字だろう。
サンダルばきの涼介は、擦るように歩いて文太の傍に寄った。
「ご馳走様、でした」
「……ああ」
自分の傍で頬を赤らめて俯く涼介に、文太は目を逸らした。
(いよいよだな……)
涼介の具合をこの目で確かめた。
飯を食わせた。
しようと思っていたことは二つ果たした。最後にしなければいけないことが、重大な課題がある。それを、する時が来た。
「なあ、……」
「はい」
白いFCを見ながら、文太は切り出した。
涼介が顔を上げた。
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再会編/二度目編