サクラ、サク 1
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「よぉ、儲かってるか」
「おっ。いつもより早いじゃねえか、文太」
三月も半ばを過ぎた日の午前。
文太の運転するインプレッサは配達先の一つであり、旧友でもある秀司が営むケーキ屋に寄った。
文太が店に入ると秀司はレジカウンターでカタログの整理をしていた。
忙しいという秀司の口癖どおり売れ行きがいいらしいこの店は、今月からショーケースが新調され、ケーキの種類が増え、奥の厨房で働くパティシエの数が増えた。夏には増床する予定だという。
「まあな、今日は道も混んでなかったんでな。ほらよ、今日の分」
「どうも」
カウンター越しに豆乳とおからの入った発泡スチロールの箱を受け取ると、秀司はコック帽を取り「来週から豆乳をもう少し増やしたいんだけど、大丈夫か」と訊いた。
「そりゃ大丈夫だけどよ。そんなに売れてんのか、豆乳ナントカってのは」
「豆乳ブランマンジェだよ。いい加減覚えろよなぁ」
秀司は呆れて肩を竦めた。秀司が厨房におい、と声をかけると見習いが走ってきて箱を受け取った。
「超売れ売れだぜ?」
「ふぅん」
藤原豆腐店の豆乳を使ったブランマンジェは、この店の看板メニューでもあった。店の入り口には豆乳ブランマンジェのポスターが貼ってある。
「春休みは書入れ時だからな。ボトル、後二本追加頼む」
「わかった、来週から後二本追加だな」
胸ポケットからメモ帳とボールペンを出し、文太は注文をさらさらと書き留めた。
「ところでなぁ、文太」
「ん?」
「お前んとこの涼介君、合格発表今日だろ?」
「……あ?」
カウンターに肘を突いた秀司の言葉に、文太は思わず細い目を見開いた。
「何のだよ」
「いやだから、医師国家試験の合格発表だよ」
「そうなのか」
「そうなのかって、知らないのか?」
「……いや、知らねえ……」
「なんだ、お前知らなかったのかぁ!?」
再び呆れたた秀司が、全くお前ってやつは……、と額に手を当てた。
(そうか、合格発表ってやつがあるな……)
秀司に言われ、今頃の様に気付いた。
嘘でも偽りでもなく、文太は本当に、涼介の国家試験の合格発表日を知らなかった。
試験の日はカレンダーに涼介が書いていったが、肝心の発表の日は書いていなかった。
「っつか、なんでお前が知ってんだよ、秀司っ」
当たり前と言えば当たり前のツッコミをしてみると、秀司はまだ呆れたまま種明かしをした。
「うちのはす向かいにナニがある?」
「あ?」
言われて、文太は振り返ってみる。ショーウインドウ越しに通りを挟んで、眼科がある。
「眼科」
「だろ」
「それがどうしたんだよ」
「そこの眼科の娘さんが、東京の医大に進学してて、涼介君と同い年なんだよ。で、国家試験受けたんだ。今日が発表だってんで、そこの奥さんが先週からそわそわしてんだよ」
「……そうか……」
秀司が知っている理由は案外シンプルなものだった。
そうだったのか、と納得し、文太は久しく会っていない涼介のことを考えた。
医師国家試験を控え、明日から暫く来れませんと言って文太の元を去ったあの日から、涼介からはメールも電話もないままだった。
今元気にしているのか、試験は出来たのか、卒業式はいつなのか、もう終わったのか……それさえ知らない。
「アイツは忙しいからな……連絡なんざねえよ」
知らせがないのは元気な証拠だ、そう思うことにしている。
涼介にもし何かあれば、彼の弟経由で拓海に話が伝わって自分の耳にも聞こえてくるはずだ。それがこの日まで全くないのは、偏に何もないからだろう。
「まあ、あのコなら受かるだろうけどな。サバンナ乗りはここが違うからなー」
若い頃サバンナに乗っていた秀司は、自分の頭を指差してうんうんと頷いていた。
奥の厨房で、若い女性の見習いが二人、ボウルを抱えたままクスクスと笑っているのが見えて文太も噴出しそうになった。
「何が可笑しいんだよっ」
「何でもねえよ。じゃあ、来週からボトル追加しとくよ」
秀司の店を後にして、次の配達先へと向かった。
ああ言われるとなんだか気になってしまう。涼介が落ちるとはとても思えないが、試験の合格率は100%ではないのだ。
いつだったか、お前は頭がいいから試験くらいなんてことはないんじゃないかと、お世辞抜きの本心で文太が言ったら、オレみたいなのが一山いくらでいるのが医学部ですよ、オレより出来る奴はいくらでもいるんですからと涼介は謙遜した。
実際そうなのだろう。だからこそ、彼は寸暇を惜しんで勉強してきたのだ。
(受かってたら、祝ってやるかな……)
年末に二人で回転寿司に行った時、その話もした。
「オレが国試に受かったら、お祝いして下さいますか?」
「馬鹿野郎、んなカネあるか。ハチロクのエンジンとインプで素寒貧だぞ」
「……別に湯豆腐でもいいですよ」
「だったら幾らでも食わせてやる」
そう言って笑っていたあの顔が浮かぶ。
湯豆腐はまだギリギリセーフの季節だ。冷奴には早い。
(となると、だ……いや、受かってたらの話だけどな……)
文太には、思い当たる店があった。
信号が赤になった。
ギアを落としながらブレーキを踏んで停車する。
と、助手席に放り投げてあった携帯が震えた。
「ん……?」
手を伸ばしてシェルを開く。
『メールを受信しました』の表示があり、その下には、まるで秀司があのことを言うのを待っていたかのように――懐かしい名前。
『涼介』
「……お、」
来たか、と思った。
はやる気持ちを抑え、車を少し走らせてコンビニの駐車場へ停める。
あの日から、涼介から連絡の類は一切なかった。それが今日、このタイミングで来たという事は、だ。
(……)
内容の推測は着いている。
天国か、地獄か。
我が事の様に緊張の面持ちで、文太は息を呑んで武者震いし、メールを開いた。
『桜が咲きました』
お久し振りですだとか、時候の挨拶だとか、そう言った類は一切なく、ただその七文字だけがあった。
しかし、それはとても饒舌な七文字だった。
涼介らしいメールだ。
長い長い冬が、やっと終わった。
彼の夢が、漸く叶った、それが凝縮された七文字だ。
「……そうか………」
はあ、と深い深い息を付き、文太は心の底からホッとした。
そしてその七文字を、何度も何度も目で辿った。顔は知らずに綻び、口元は笑んでいた。
涼介は、無事に医師国家試験に合格したのだ。
文太の返信は、これまた簡潔だった。
『おめでとう』
ぶっきらぼうな文太には珍しい、ストレートな祝いの言葉だった。
涼介の桜は、咲いた。
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