つじぎみ・むすこ

接吻編

きまりの悪い朝食だった。
拓海は、普段ならするはずの二度寝ができなかった。
が、そういう時、本来ならば催すはずの眠気は今日に限ってどこかに吹き飛んでしまっていた。
藤原豆腐店に高橋涼介がアルバイトとしてやってきて、そしてまめまめしく働いていたことは、拓海の眠気を吹っ飛ばすには十分すぎる出来事であった。
そして目の前で、いつもよりもしかめっ面で味噌汁をすする文太への「疑念」が湧き上がって、眠気という二文字は拓海の頭から完全に消え去ってしまった。
あまり味のしない安物のソーセージを齧りながら、拓海は行儀悪く上目遣いで文太を見た。聞きたくてたまらなかった。

「オヤジは、涼介さんとどんな関係なの?」と。

さっき、拓海と涼介は一緒に作業をしたが、その際、涼介がとてもうれしそうに「前からお父さんのお店で働きたかったんだ」と語った。
働きたかったから働きに来た、涼介の言い分の断片を拾い集めるとそういうことになる。
しかし、引っかかるのは理由以前に呼び方だ。「お父さん」。涼介が、赤の他人のはずの文太のことをそう呼んでいるのだ。
何度か、文太のことを「お父さん」と何度も呼んでいた。藤原のオヤジさんとは言わなかった。この前は確かそういった気がするのに。
その「お父さん」という言い方が、なんというか自分の父親だという感じに聞こえたのだ。
例えば、迷子になっている小さい子に「お母さん探そうか?」と言う、あの感じとは違う。
「(オレの)お父さん」、そう拓海には聞こえた。
(実際涼介はその意味で言っていたのだ)
拓海は反論もなにも口にはしなかったが、頭の中は混乱と疑惑が渦巻いていた。
(涼介さん、なんでうちのオヤジのことをお父さんとか呼ぶんだろ……) 
普段からべたべたするような親子仲ではないけれど、赤の他人に自分の父親をお父さんと呼ばれて、いい気がするはずもない。

その疑問に、拓海自身の頭のキャパシティで考えうるもっとも納得のできる答えは、

(まさか……涼介さん、オヤジの隠し子とか……!)

という、テレビドラマさながらの展開しかなかった。

文太がテレビのリモコンを押した。朝のニュースにチャンネルをあわせると「何だよ、夕方から雨か」と機嫌悪そうにつぶやいた。
「ど、どっか行くの……?」
思わずどもってしまったが、拓海は聞いてみた。
「ああ、店閉めたら政志と走りに行きたかったんだけどよ。雨はあんまり好きじゃねぇな……中止だな」
「ふぅん」
そういう当たり障りのない会話をしながらも、拓海の頭の中は、一旦はじき出した答えを検証するのに必死だった。

(いやまてよ、それはないよな……ウチのオヤジがもうすぐ44で……涼介さんも来月24だっけ? オヤジが二十歳のとき? その前だから19の時に涼介さんのおふくろさんと知り合って……?? 
いやいやいやいやそれだったら啓介さんもオヤジの子になっちまうし! ってかこないだ会った涼介さんたちのオヤジさん、すっげー涼介さん似だったし!)
拓海の出した答えは仮定にすらなっていなかった。
第一、文太にそんな甲斐性はない(はずである)。
第二に、涼介とよく似ている啓介も文太の子、ということになる。
第三に、先日、涼介の見舞いに行った際に顔を合わせた高橋兄弟の父親は、親子だな、と一目見てわかるほどに涼介に似ていたから――この線はなしだ。

(じゃあ、なんなんだよ??)

振り出しに戻ってしまい、拓海は首をかしげた。
(涼介さんがうちのオヤジのことをお父さんって呼ぶ理由って、何がある?)
涼介の、彼自身にしか理解し得ない思考を拓海が想像できるはずもないのだ。
そして文太のあの不機嫌。
だから答えは出てこず、拓海はますます悩む羽目に陥った。

「変な面してねぇでとっとと飯食え、拓海」
「あ、うん……」
七面相をする息子に、文太が心配そうに声を掛けた。
「お前明後日から会社だろうに」
「う、うん」
「ボーっとしてねえで仕事に必要なものとか揃えとけよ。靴とか、あとメモとかな」
「わかってるよ」
返事をする拓海の喉のすぐそこまで、質問は出かけていたのだ。


「オヤジと涼介さんはどんな関係なの?」

関係、といえるほどのものではなかった。
このときはまだ。
「オヤジさ、オレが聞くのも変な話だけど、涼介さんて時給幾らなわけ?」
子供が金の話をするなと言われたら、もう社会人だとひと問答くれるつもりで拓海はいくつもの疑問のとりあえず一つをぶつけてみた。
「あぁ? アイツか。タダだよ、タ・ダ!」
「はぁっ!?」
素っ頓狂な声をあげてしまった拓海は、ばん、とちゃぶ台を叩いた。
「涼介さんてすっげー忙しいし、群大の医学生がカテキョとかやったら時給幾らだと思ってんだよ!」
「だってあいつがタダで良いって言ったんだ」
文太は拓海をにらみつけた。
そう、涼介がそれでいいと確かに言ったのだ。
「アイツがタダで良いっていうからタダなんだよ!」
「わ、わかんねぇよなんだよその理由っ……」
「じゃあお前が自分の給料からアイツに払うか?」
「それは……」
「だったら黙ってろよ」
「……う、」
てっきり、相場より安い時給を言うかと思っていたのだ。そうしたらまさかのゼロ円。
これはさすがに拓海も想像しておらず、ますます疑問が深まったどころか、混乱に近かった。
「そ、そんな、涼介さんタダ働きさせてるとか知れたら、オレ啓介さんにぶっ殺される……」
「別にうちが頼んだわけじゃねえんだ。アイツが働きたいっていうからだ。金がねえからタダで良いかって言ったらいいって言った、それだけのことだよ」
文太は勢いをつけて立ち上がると「ガキが口出すんじゃねえ」と言い捨て、店に降りてつっかけをはくと「タバコ買ってくる」と出て行ってしまった。

「なんなんだよ、もう……どんな理由だよそれ……」
頭痛い、と拓海はちゃぶ台に突っ伏した。半分泣きそうな声であった。



「珍しいこともあるもんだな」
「何が」
昼食にはまだ少しばかり早い時間だ。
大学の近くにある学生向けの食堂で、涼介は同じゼミの友人と昼食をとっていた。
「高橋がゼミの間、うとうとしてたの」
「ああ、あれ……見られてたのか」涼介は頭をかいた。
「まじめな高橋にしちゃ珍しいからな、そりゃ見ちまうよ。まだ体調、完全に戻ってないんじゃないか?」
「いや、それは大丈夫だよ」
さっきのゼミで涼介は珍しく、眠気に襲われてうとうとしていた。
窓際の、日当たりのいい場所が涼介の定位置なのだが、春の日差しの暖かさ、早朝から文太の店でアルバイトをし、慣れない力仕事をしたことが最大の原因だ。
夜通し峠をFCで走ったり、打ち合わせをしてほとんど寝ないことは珍しくなかったが、その程度でうとうとしたことはこれまでにはなかった。
(思ったよりも肉体労働だったな……)
癖のある車を走らせるのも大量が必要だが、豆腐屋はそれ以上だった。
拓海はおぼこい顔の割に筋肉がきちんとついているし、話にも豆腐屋は肉体労働だと聞いていたけれど、実際やってみるとそれはなるほどそのとおりだった。
最初の卯の花はまだしも、豆腐の入ったケースも、おからの入った鉄鍋も、一抱えもある俎板などは重く、力を使うことが多かった。
このところ、参考書くらいしか重いものを持つことのない涼介には、少々骨が折れた。勿論平気な顔でやりすごしたけれど。
重いうえにかさのある鉄鍋をひょいと持ち上げる拓海はやはり豆腐屋の息子、というべきだろうか。いやいやながらも手伝いをし慣れているのだ。


「あんまり無理するなよ、また倒れちゃ元も子もないからな」
「わかってるよ」
目の前の友人は、どうやら涼介の体調が悪いと思っているようで、涼介が残した定食のキャベツの千切りを「ほら、栄養あるんだから食えよ!」と促して涼介を笑わせた。
文太に拒まれたショックで寝込んでいた時期のことをまだ心配されるのは、それだけ涼介が普段からまじめに大学生活を送っていたからだ。

(でも嬉しいな、お父さんのところで働けて)
文太にまた会えた。
そしてその店で働けた。文太に仕事を教えてもらった。文太のために役に立てたことが、涼介には何よりの喜びであった。
文太が常日頃暮らしている、働いている店を掃除することも涼介には嬉しいことだった。
夕方、また行くと言ってある。今度はどんな仕事を教わるのだろう。
大学が終わればひとまず文太のところに行かねばならない。忙しい身の上にさらに忙しさが加わったが、涼介にはそれさえ幸せであった。
腕が、太股が、じんわりと筋肉痛を感じ始めていた。


昼を過ぎて、夕方に至る少し前。
店は暇な時刻を迎えた。
シャッターを半分下ろして、文太は居間にごろりと横になり、テレビをつけた。
日常の、それが文太の毎日の生活だ。
(何だってなあ……)
そこに割り込もうとしているのが涼介だ。時計を見上げれば、後数時間もすれば彼はまたここに来る。そして文太の店を手伝うのだ。
(また来んのか)ちっ、と舌打ちをする文太の目に映るテレビは、お気楽な午後のワイドショーだ。
朝、二時間かそこいらだったが、涼介はこの店に、いろいろと『跡』を残していった。
文太にとっては悪い意味で、世間的にはいい意味での痕跡だ。
普段一人で仕事をし、店を回している気楽さからついついかまけてしまっているレジカウンターのまわりをきちんと掃除し、散らかっているペンや輪ゴムなどを整え、今文太が寝転がっている居間も掃除して帰ったのだ。 黄ばんでいたレジスターも磨いてぴかぴかだった。
朝食後に気づいたのだが、なんと台所まで掃除してあった。古いガスコンロのあたりを丁寧に拭いた跡があった。
「涼介さん、次から次にあれこれやってくれてたよ」と拓海が言っていた。
頭の回転がいいのと、飲み込みがいいのと両方で、涼介は一度言ったことは忘れないし間違えないようだ。
たったあれだけの時間で、涼介は店の冷蔵庫も流しも、綺麗に磨いて帰った。
普段は掃除しない家の裏手まで掃かれていた。
ひどく片付いた自宅と自分の城たる店に落ち着かないのは、その片づけを自分がしていないことと、望まずにそれが行われたこと、そしてそれをした人間が、目下文太が一番嫌いなはずの涼介だからだ。 勝手に片付けやがって、と毒づく文太に、「いいじゃん綺麗になったんだから、なんで怒るんだよ」と拓海が口を尖らせていた。
(どうしたもんだか……)
目を瞑った文太の眉間には、深い皺が寄っていた。
夕方に来たら、どんな仕事を押し付けて、こんな店も自分も嫌だと思わせてやろうかと、文太は考えた。


(嫌いになってくれねえかな……)
朝のあの様子では、その望みは薄いかもしれない。
ただのお坊ちゃんだと思っていたから、汚れ仕事をさせれば嫌になるかと思っていたのだが、拓海曰く
高橋家の方針らしく、涼介も啓介も一通りの家事はこなせるらしい。啓介は掃除だけは苦手らしいが。
(オレなんか見るんじゃねえよ……何でオレなんだ)
こんな、みっともない中年男の自分など、と。

己を卑下しながら、文太は深くため息をついた。

そのまま、眠ってしまった。


この日、二度目になる藤原豆腐店を目指して、涼介は坂道を歩いていた。
文太が教えてくれた更地にFCを停めて、朝とは違うエプロンを手に。
流石に殆ど寝ずに朝のバイト、それから授業、と体は少しだるさを感じていたが、それでも心はわくわくと楽しさに満ちていた。
天気予報にしたがってぽつぽつと降り出してきた雨にできるだけ当たりたくないと、小走りにあの家を目指した。
(あれ……閉まってる)
シャッターが半分降りていて、店の明かりが付いていない。
「暇な時間はシャッター半分占めてオヤジ寝てますから」拓海からそんな話を聞いたことがあった。文太とまだ会う前で、「それで泥棒が入らないから平和だよな、日本は」と笑ったものだ。
(寝てるのかな)
ハチロクはあるから文太はいるだろう。
予感を胸に、涼介は駐車場から店に入れる通用口のドアを開けて中に入った。
(あ、)
店の中は薄暗い。そして、いびきが聞こえる。
居間から明かりがこぼれている。
「寝てる……」 大の字になって寝ている文太が、そこにいた。 (お父さんの寝顔……)涼介の胸が、きゅんとときめいた。 文太の寝顔。
見てみたかったものが、そこにある
。 涼介はあたりを見渡した。天井を見上げたが、二階の拓海の部屋からは物音がしない。
拓海の靴もないようだからいないのだろう。
(つまりオレは今、お父さんと、二人……)
ごくりと息をのみ、涼介は靴を脱いで、慎重に居間に上がった。

そして文太のそばに膝をついた。
愛しい人の寝顔を間近に見られて、涼介の顔がほころぶ。


(キス……したい)
唐突に、いや、ずっと前からそう思っていた。
文太に初めて会った日から。

涼介は畳に手をつくと、ゆっくりと、顔を近づけた。
タバコと、うっすらと酒の匂いの残る文太の顔に。
そして。

「……お父さん、好きです……」

呟きはいびきにかき消された。
が、涼介の唇は、文太の唇に、触れた――軽く、触れた。

熱い唇だった。

ずっと、触れたかった人の唇だ。

(お父さんっ……)
胸がいっぱいになった。

涼介の視界が、涙で歪んだ。

早朝編/続く