パッキンの古くなった水道の一つから、ぽたり、ぽたりと水が滴り、シンクに落ちて音を立てた。
咥えたタバコに火をつけることなく、文太は居間の上がり口に座ったまま、店の入口に立つ背の高い男を睨んでいた。
深夜四時の豆腐屋は、その時間には似つかわしくない、不思議な緊張感に満ちていた。
少し前、ここで涼介は泣いた。
文太は涼介に水を掛けた。
その場所で、二人はまた相対している。
「……バイト?」
「はい」
「お前が、か?」
「そうです」
文太の問いに、涼介は答えた。
確かに、拓海が就職して家の手伝いがどうしてもできにくくなる今、人は欲しいのが文太の本音だ。
しかし、だからどうして涼介がそれに名乗り出てくるというのか。
(まったく……)
何と言おうかと文太があれこれ考えを巡らせていると、涼介の方から先に踏み込んできた。
「履歴書、ちゃんと書いてきました」
涼介は文太の前までつかつかと歩き、手にしていた茶色い大判の封筒を手渡した。
「履歴書……」
差し出されたものは受け取るしかなく、文太はその封筒を受け取り、中を改めた。
市販の履歴書用紙には顔写真が貼ってあり、学歴や資格、志望動機がきちんと書かれれていた。
志望動機は「お父さんが好きだから一緒にいたい」と、子供じみて、そして文太の気持ちを苛立たせるものではあったが、それ以外の場所、例えば資格欄には英検一級だの、得意科目は全科目だの、高校時代に何某に選ばれただの、凡そこんな古い小さな豆腐屋のアルバイトには似つかわしくないような経歴が並んでいた。
一通りに目を通せば、文太は目の前に立つ青年を睨んだ。
にこにことしている涼介は、また文太に会えた、それだけでもう幸せだった。
文太のところにアルバイトとして雇ってもらう。
それが涼介の「計画」だった。
もちろん、勝算はあった。
少し前。具体的に言えば文太に最初に拒まれて寝込んでいた時だ。
啓介に連れられて拓海が見舞いに来たことがあった。その時、涼介と拓海は少ししか会話をしなかった。
が、その後、うとうとと眠り始めた涼介のそばで、啓介と拓海と交わしていた会話の中に、ヒントはあった。
4月から社会人になる拓海は、同時に県外遠征も始まる。店の手伝いがあまりできなくなるだろうと啓介に言われたのがきっかけだった。
『オヤジが、オレが仕事始まったらパートさんでも雇おうかななんて考えてるみたいなんですよ』
『へぇ』
『でも、あんな豆腐屋にパートに来てくれる人なんているのかな……』
『募集かけりゃいるんじゃねえの? 仕事したい人はいっぱいいるだろ、不景気だしさ』
『けどうちのオヤジ、人に来てもらうなら早朝と夕方がいいっていうんですよ、そんな変な時間、無理ですよ……』
『早朝ってオレが寝る時間じゃん!』
『それは啓介さんが遅寝すぎるんですよ』
朝と夕方だけを手伝って欲しいというのは、拓海も外部の人に頼るのはむつかしいと思っているようだった。
『ああいうのは家族だからできることなんですよ。オレも、できるだけ就職しても手伝うつもりでいますけど、でも……うちのオヤジ頑固だしケチだし、人に来てもらうのも難しいと思いますよ』
ハチロクのことでは随分と文太に迷惑をかけたから手伝いはしたいのだけれども、と拓海は頭を掻いていた。
ベッドで目をつむったまま、涼介は二人の会話をぼんやりと聞いていた。
そして、思い描いた。
文太の豆腐屋で働く自分の姿を。
文太の隣に立つ自分を。
そのときに思いついたのだ。
「藤原……息子さんから、あなたが人を雇いたいと思っているとお伺いしたんです。ぜひ、オレを雇ってくださいませんか。朝と夕方、こちらに参りますから」
(拓海か……)
文太がわずかに顔をしかめた。
情報源が気になっていたが、案の定拓海だった。
「お前は大学とかプロジェクト何とかとか……用事があるんじゃねえのか」
「確かに大学はあります。県外遠征もあります。でも時間は作るものですから。できるだけ都合つけてきます」
自信たっぷりに言った。
「だいたいお前さんを雇えるほどうちに余裕は……」
「お給料はいりません」
遮るように涼介が言った。
「ただ働きでいいってのか?」
「はい」
「……」
確かに、パートを雇うにしても、それほど高い時給を払える余裕はなかったが、それにしたって最初から働きで良いといわれると、やっと口から出た断りの台詞も一瞬で台無しになってしまう。
「ただ、このお店で働けたら、それだけでいいんです」
本当にうれしそうに微笑むその顔に、文太は怒りを覚えた。
労働というものは対価となる報酬を得てこそ成立するものだ。
対価は涼介にとって、この場合、文太そのもの、なのだ。
(なるほど、考えたもんだな)
文太よりも涼介の方が一枚上手だったということだ。
断られることは予想済みで、そのために答えを用意してきたのだ。そしてそれはただのはったりではなく、本当にそうしたいと思っているのだ――たちが悪いことに。
そうなれば、文太の反撃は手数が限られてくる。
どうするか、暫し逡巡して、一番効果的だろうが一番気乗りしない方法に行き当たった。
(仕方ねぇな……)
この男とは一瞬でも一緒になどいたくないというのに。
「……やれるもんなら、やってみろよ」
それが文太の「反撃」だった。
立ち上がり、履歴書を突き返した。
「持って帰れよ、こんなご立派なもんウチの仕事にゃいらねぇよ」
「あ、」
突き返された封筒を取り落としかけた涼介があわてていると、文太は半分に落としていた店の明かりを全てつけ、「エプロンかなんか持ってるか」と聞いた。
「雇って、下さるんですか?」
「雇うから聞いてんだろーが」
「……持ってます」
涼介の声が弾んだ。
「本当にただ働きでいいんだな?」
「はい」
「ビタ一文もはらわねぇぞ」
「はい!」
勢いのいい返事の後、涼介はやった、とよろこんでいる。
「とっととしろよ、拓海が帰ってくるまでにやるこたぁいっぱいあるんだ」
「はい!」
「荷物、そこ置いとけ。エプロンしたら手ぇ洗え」
「わかりました」
文太が指した居間の上がり口付近に涼介は荷物やコートを置き、持参したエプロンをつけて文太に続いた。
『この店で雇ってくれ』というから、『雇う』。
文太の隣で居たいというから、そうさせた。
現実の自分という男を間近でずっと見ていればきっといやになるだろう。自分が思い描いていたことなど、ただの『理想』という名のわがままでしかないとわかるだろう――文太の反撃は、涼介の理想に対する現実だった。
「……こうやったら、ここが熱でくっつくだろ。こんな感じに」
「はい」
「そしたらここのトレーに置いていく。縦横はこう。二段積みはしねぇからな。このトレーに全部入ったら冷蔵庫、あっちの右から二番目の上。トレー三つ。重ねていい。三つ分出来たら後は店で売るからあの木の蓋しとけ」
「わかりました」
「それ終わったら次の仕事だ、速めに済ませてくれ」
「はい」
最初は、配達用の卯の花をパックに計りながら入れ、古いシーラーでラップをしてトレーに並べる仕事だ。一抱えもある鍋にはできたばかりの卯の花炒りが湯気を立てている。
文太がやり方を一通り教えると、返事のいい涼介は早速トレーに卯の花を杓文字で掬い入れて秤に載せた。そしてそれを隣のシーラーに置き、ラップを掛ける。
手先は器用な方らしく、最初の二つ、三つこそぎこちなかったが、すぐにこつを覚えたようだ。
(ま、最初にさせられるのはこのくらいか……)
今任せたのは、簡単だが手際のよさが問われる仕事だ。拓海は変なところで大雑把で、こういう仕事を任せると具がほとんど入っていないものを作ったり、シーラーの周りを汚したりとよく文太に叱られる羽目になる。
涼介は文太の視線を感じながら、てきぱきと仕事をこなしていった。
卯の花を涼介にさせている間に、文太は洗い物をし、店のショーケースを拭き、消毒し、午前中に文太自身が行く配達の伝票を整理し始めた。
行き先ごとに納品書とノートに書き、最後にまとめて電卓を叩く。
どれも数は少ないが、行き先が殊のほか多い。
小さな個人商店が中心で、スーパー、弁当屋、定食屋、レストランなど店によって納品する品目も違う。豆腐だけの店もあれば卯の花が多い店もある。おからだけというところもある。
今日の出来上がりや天気などを考えながら書き付けていると、
「出来ました」
と威勢のいい声がした。
「あ?」
文太が顔を上げると、涼介が「卯の花、終わりました」ニコニコしている。
壁掛けの時計を見て、振り返ると綺麗な顔と目が合った。
涼介が仕事を終えたのは、文太が思っていた半分以下の時間だった。
[もう終わったのか」
「はい」
念のために冷蔵庫を見ると、綺麗に盛り付けてシールをした卯の花のパックが綺麗にトレーに並んでいる。拓海のように、具がちっとも入っていないものもないようだ。
「ほう」
初めてにしては上出来だ。比べてはいけないのだろうが、拓海よりは使えそうだ。
「これ、書かれるんですか」
「ああ」
涼介は文太が書きかけている伝票を覗き込んでいた。
「計算でしたら得意ですから、させてください」
「……ああ」
「これとこれを掛けたのをここですよね」
「そうだ」
「ノートにも同じ数字を?」
「ああ。ノートは鉛筆で」
「わかりました」
文太の返事を受けるなり、涼介は電卓を使わず、伝票にさらさらと書き込んでいった。
(……暗算か)
つくづく頭がいいというか、なんというか。そつなくこなしていくタイプのようだ。
やがてハチロクのエキゾーストが遠くから聞こえだした。
拓海が配達から戻ってきたようだ。
涼介が一瞬、伝票から顔を上げた。
伝票を涼介に任せた文太が、洗ったものを店の裏手に並べて干していると、赤いバックライトが内塀を照らした。
(面倒だな……)
文太は舌打ちし、肩でためいきをついた。
涼介を雇ったことを、拓海に説明しなければいけない。
エンジンが切れ、拓海が降りてきた。
「ただいまー」
「おう」
ひとっ走りしてきたのにまだ眠そうな拓海は店に入るなり、案の定「えええっ!」とご近所迷惑必須の絶叫に近い驚きの声をあげていた。
「ちょっと、オヤジっ!」
駐車場から店に入る通用口を入ったと思ったら、拓海は絶叫して戻ってきた。
「うるせーぞ、時間考えろ拓海」
布巾を縄につるして干しながら文太がしかると、拓海は「だって! だって! 涼介さんがっ!」と、よほど頭が混乱しているのか日本語が若干不自由になりながらも文太に訴えていた。
拓海の言いたいことはわかる。
「アイツが雇ってくれって来たんだよ」
「ええええっ……なんだよそれっ……」
拓海の台詞は、文太の気持ちとまったく同じものであった。
「そりゃこっちの台詞だ」
パン、と勢いをつけて布巾を広げた文太の顔はしかめっ面そのもので、拓海はそれ以上深く聞くことがためらわれることを理解し、追求をやめた。
どうして高橋涼介がうちにいて、エプロン姿でレジで伝票を書いているのか。
拓海と同じくらい、文太にだってわからないことだった。
「拓海、午前中の分の配達、分けとけ。あいつが伝票作ってるから」
「あ、うん……わかった」
機嫌の悪そうな、としかいいようのない文太の「あいつ」呼ばわりに、拓海は何かがある、と勘が鈍いなりにも察したようだ。
(なんで涼介さんがうちに……)
自問したところで疑問符は消えることはない。拓海は店に戻り、涼介の傍で午前中の配達の手配を始めた。
拓海が冷蔵庫の扉を開けて、パック詰めされた豆腐の入ったトレーを出していると、伝票を揃え終えた涼介が「手伝うよ」と手を出してきた。
「あ、どうも……」
「藤原、オレ今日からここのバイトなんだ」
「あ、はい」
「そういうわけで、よろしく」
「はぁ」
拓海はただそうとしか返事ができず、冷蔵庫特有のにおいにまぎれて顔をしかめた。
「これ、全部出すのか?」
「はい、そんで、さっき涼介さんが書いてた伝票の数と合わせていくんです。あっちの冷蔵庫におからとか、油揚げとかあるんで、それと合わせて」
パックづめされた豆腐のずらりと並べられたトレーは思ったより重い。卯の花とは違う。
「ん、」
トレーを持ち上げた涼介が重そうにしたのを見た拓海が、
「そこ、持つと重いですよ。腰にきますから、この辺り持ってください」とアドバイスした。
「これ、持ち手のところよりこの辺り持った方がいいんですよ」
「わかった」
拓海にアドバイスを受けた涼介がトレーの持ち方を変えた。
冷蔵庫の中の重いトレーを出しては床に積み上げていく。
(オレが涼介さんにアドバイスするなんて、車じゃありえねーことだよな)
自分で言ったことながら、拓海は苦笑してしまった。
普段は涼しい顔をして人に指示をする立場の涼介が、エプロン姿で豆腐を運んでいる。なんだかその光景は不思議なものに思えて仕方なかった。
最後のトレーを出し終わり、拓海は涼介が揃えていた伝票をとりにレジカウンターへ行った。
(わ……新鮮……)
見慣れた、文太の字に混じっている、涼介のまめな字。
いつもの伝票が違うものに見える。
「あ、涼介さんこれ……」
拓海があることに気づいた。
「ああ。配達、この順番だろ?」
「……そうです、はい」
伝票は、いつも文太が配達する順番にちゃんと並んでいた。
「うちのオヤジに聞いたんですか?」
「いや、ここからのルートを考えたらこうだろうなって思ったんだよ」
「……へぇ、」
流石、としか言葉はなかった。
拓海はちらりと涼介を見た。
にこにことしている涼介は、峠で見るときよりもずっと……親しみやすい雰囲気が、する。峠で居るときの涼介は、まさに孤高のカリスマという言葉がぴったりで、あまり人を寄せ付けない雰囲気がある。松本や史浩がいないと、拓海は話しかけづらいし、威圧感のようなものさえ漂っているからだ。
それが、今目の前でエプロンを掛けている涼介は、なんだか違う人のようだ。
てきぱきとしていて、頭が回り、流石涼介だとは思うのだが、なんというか、……違うのだ。峠で居る涼介とは。
「藤原、次は何を出すんだ」
「あ、えっと……」
涼介に促され、拓海はあわてた。
外でハチロクのタイヤに水を掛けている文太がなかなか戻ってこなかった。
その後も仕事は続き、普段なら配達を終えるとせいぜい洗い物を干すぐらいで二度寝に戻る拓海は、涼介への仕事の指示を言い付かっていたから、夜がすっかり明けきるまで店にいた。
普段は文太がすることを、涼介がしている。
それが不思議で新鮮だった。
午前中の配達の準備、それから店の窓拭きや床掃除まで涼介がした。そんなことオレがしますよ、と恐縮する拓海に「バイトだから」と雑巾を手に涼介は窓を拭いた。
そして午前七時半ごろ、「大学があるので」と、やっと店を後にした。
「すみません、お先に失礼いたします」
「ああ」
二人に店を任せた文太はといえば、呑気に外でタバコをふかしていた。というより、涼介といたくないから外にいただけなのだが。
折りたたんだエプロンを手に、ぺこりと頭を下げた涼介に文太は
「車」
と聞いた。
「はい?」
「お前、車で来たのか」
「ええ」
「FCでか」
「はい」
「どこ停めた」
「坂の下の、観光用パーキングに」
涼介が答えた。この商店街のある坂道の麓に、観光客用の有料パーキングがある。そこのようだ。
「そこじゃカネ掛かるだろ。その反対側の更地、奥から二列目にウチの名前書いたブロックがあるからそこに停めろよ」
「よろしいんですか?」
「来客用に一応借りてるんだ。バイトだから停める権利くらいあるだろ」
「……ありがとうございます。夕方から、そうさせていただきます」
「ああ」
何度も頭を下げて、坂を下っていく背の高い後姿。
夕方にまた来ると言っていた。
文太はそれを見送り、「まいったな」と頭をかいた。
(情け掛けちまったな……)
有料パーキングの反対側には商店街やこの辺りの家が借りている更地の月極があり、そこを来客用に借りていた。
それを涼介に停めていいといったのは、ある意味情けかもしれない。
あんな遠いところから燃費の悪い車でこんな時間に来て、おまけにただ働きで駐車料まで払わせるのは、いくらなんでも悪い気がしたからだ。
嫌いな相手とはいえ。
「オヤジ、涼介さん帰ったの」
「ああ」
店に戻ると、味噌汁のにおいがしている。拓海が朝食を作ったようだ。台所に居る拓海がのれんから顔を出した。
「涼介さん、朝飯くらい食ってけばいいのに」
「大学があるんだとよ。拓海、飯」
「あともう少し」
ちゃぶ台につくと、文太はふとしたことに気づいた。
「拓海」
「何」
「ここ掃除したのか」
いつもよりも居間が片付いている。埃っぽかった畳が綺麗になっているし、テレビの画面もぴかぴかしている。
「それ、涼介さんが掃除したんだよ」
「……」
やられたな、と文太は舌打ちをした。
流転編/接吻編