”V” Night(前編)
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Virgin
Vagina
Venus
Voice
……Victory
午後11時。国道沿いのファミレスは走り屋御用達の店だった。その店の一番奥で、涼介と史浩はテーブルいっぱいに書類を広げていた。
「……藤原拓海にするって、本気か? 涼介」
史浩は目の前に座る涼介の口から出た名前に驚きを隠さなかった。
手にしたカップに口を付けることも忘れ、暫く大きな目をぱちくりとさせていた。
「ああ。藤原拓海。県外遠征チーム……プロジェクトDののダウンヒル担当は、あいつにするよ」
堅いソファに優雅に足を組み、縁の広い紅茶カップを手に涼介は薄く微笑んだ。
現在群馬エリアの走り屋では、藤原拓海がダントツに速いことだけは確かだ。悔しいが、涼介自身認めざるを得ない事実だ。
涼介も、弟の啓介もあっさりと彼女に破られた。
まだ若葉マークの筈の女子高生はここ数ヶ月、北関東エリアの走り屋の話題を独占し続けている。
秋名のハチロクの名前はあっという間に有名になった。注目度は、かつて涼介が「赤城の白い彗星」と呼ばれた時以上かもしれない。
「あいつがイエスと言うか、ノーと言うかはわからないが……ま、イエスと言わせてみせるさ。走りたい人間にはこの上ない条件を揃えたんだぜ?」
二人の間、テーブルの上には春から始動する県外遠征チームの素案の書類が広げられている。
走りたい人間にはこの上ない条件……涼介の”条件”の内容とは、プロのメカニックが付き、チューニング代やガソリン代もチーム持ちというもの。
普通の走り屋なら泣いて喜ぶ条件だ。
二人は最近、連日のように県外遠征チームの打ち合わせを行っていた。メカニックの選定、ホームページの作成、遠征用のバンの手配と打ち合わせ内容は多岐にわたり、今日は史浩が作っていたホームページがやっと完成した。
「はぁー……藤原拓海かぁ」
拓海の名前をしみじみと口にした史浩が、ベンチに背中を預け足を延ばした。
何か含みのあるような言い方が、涼介には少し気になる。
「史浩。お前は藤原拓海じゃイヤか? やっぱりレッドサンズで固めるべきだと思うか?」
「あ、いや……その話はもう納得したさ」
涼介の言葉に、史浩は慌てて座り直した。
夏前に県外遠征チームの話が持ち上がったとき、「チームの枠を越えた、いわゆるドリームチームにしたい」という涼介の意見に「最初からレッドサンズで固めるべきだ」と真っ向から反論したのは史浩だった。
走り屋はチームごとに色があり、独自のルールや人間関係、走り方がある。ドリームチームとはなんとも魅力的な聞こえではあるが、実際実行するとなるとそのあたりが大変で絶対に揉める、うまくいくわけがないというのが史浩の意見だった。
当初からダブルエース体制は決定していて、片方はすでに啓介に決まっていた。メカニックもレッドサンズ御用達のショップの整備士、広報はレッドサンズの史浩、率いるのは涼介……この時点ですでにレッドサンズ成分が9割なのだ。残りの枠が、ダブルエースの片割れ。
レッドサンズ以外からなら誰を連れてきても完全にアウェー状態になるのはわかっている。
史浩の意見に涼介は、レッドサンズに固執していては北関東制覇は達成できない、その辺りの人間関係は円滑に行う自信がある……と持論を展開し、史浩を黙らせた。
「今更あの意見を掘り返す訳じゃないよ。藤原拓海なら確かに啓介とダブルエースを張れるだろう……っていうか、あの子くらいしかいないだろうな。けどお前さ、あの子のこと、嫌ってなかったか?」
史浩は涼介から、嫌というほど聞かされていた。
『オレは藤原拓海が嫌いだ』と。
「……ああ。嫌いだよ」
吐き捨てるように言い放ち、紅茶カップを空にすると、行儀悪く音を立ててソーサーに置いた。
「オレはああ言うタイプが一番嫌いだ」
きっぱりと、言い切った。
拓海は頭ではなく感性で走るタイプだ。啓介もそのタイプだが、拓海はそれどころの騒ぎではない。理屈などない。ただ、自分の思うがままに走っている。天然といえば可愛らしいが、そんなレベルではない。
その上、走り屋の癖に車のことにはてんで疎い。自分の車に搭載されているエンジンのこともよく知らないようだ。
京一とのバトルの際のエンジンブローも、拓海の無知が招いたことだと知ったときには心底呆れたものだ。
京一だからよかったものの、相手を巻き込んだ事故になっていた可能性もある。
そんな小娘に自分や啓介は負けたのかと思うと、歯がゆくて仕方がない。
気に入らないことは他にもある。
最初の啓介とのバトルに、拓海は啓介と戦いたかったから来たわけではなかったというのだ。
「友達と海に行きたいから」バトルに来た……啓介を負かせば、父親がハチロクの貸し出しとガソリンを満タンにしてくれるという約束をしていたから……と人づてに聞いたときには、負けた啓介が哀れで仕方なかった。
寝る間も寸暇も惜しんで、公道最速理論の完成の為膨大なデータを分析し、考えながらステアを握っていた自分がバカバカしくなる。
だから涼介は、拓海が嫌いだった――走り屋として。
「……嫌いだがな、なんというか……オレの走り屋人生の集大成のこのプロジェクトを完勝で終えるためには、残念ながら藤原拓海の協力が必要不可欠なんだよ」
「そうか……ま、確かに、あのくらいのレベルじゃないと、後々キツいだろうな。東堂塾とか……パープルシャドウなんかともやるつもりなんだろう?」
「ああ。北関東制覇と銘打って、スライムばっかり倒して粋がってちゃしょうがないからな。所々でエビルプリーストだとかデスピサロも倒さないと……」
「何だよ、その例えは」
「絶妙だろ?」
「ああ」
涼介の例えに、史浩は肩を揺らして笑った。
基本的に、バトル相手はホームページで募るが、これという相手にはこちらからオファーをかけるつもりだ。
そうでないと、小物ばかりを相手にする羽目になる可能性がある。折角着いたスポンサーを放さないためには、そういうったラスボスレベルとも戦う必要があるのだ。
「だったら……仕方ないな。でも、オレはあの子を加入させるのは、やっぱりあまり気が進まないなー……」
どうにも史浩は拓海の加入に気が進まないらしい。
丁度ウエイトレスが、史浩の注文したワッフルを持ってきた。
史浩はそのワッフルに視線を移し、言いにくいんだが、という前置きをして、理由を述べた。
「……あの子は、お前の手に余る存在だと思うんだ」
コトン、と皿が二人の間に置かれた。
不格好なホイップクリームの先に、小さなイチゴがちょこんとのっていた。
「オレの手に余るだって?」
史浩の言葉に、涼介は鼻先でふん、と笑った。
「史浩。オレを誰だと思ってるんだ」
手を伸ばしてイチゴを取ったのは涼介だった。
一口でそれを口に入れ、噛みしめる。甘酸っぱい味が口に広がる。
「……女の一人や二人……ましてや女子高生だろう。言うことを聞かせるなんて、一晩あれば簡単なコトさ」
涼介は余裕の表情だった。
少し後、涼介と史浩はその日の打ち合わせを終えた。
帰り路の国道は空いていた。
涼介はFCのステアを握り、さてどうしたものか……と考えた。
史浩の前では啖呵を切ったものの、嫌いなタイプの女は同時に涼介の苦手なタイプでもある。扱いづらいことは確かだ。
女子高生の一人くらい、一晩あれば言うことをきかせられると言った涼介に、史浩は「兄弟揃って女泣かせだな」と苦笑した。
(史浩にはああ言ったが、啓介と違って女性との経験はないからな……オレは)
フゥ……とついたため息は、事実からくるものだった。
その美貌からは誰も想像できないが、涼介は23歳の現在まで、女性とは未経験だった。
先輩の婚約者を好きになった時期があった。三角関係とはドラマチックな聞こえだが、彼女とはお茶を飲み手を握るのが精一杯で、結局それ以上の関係になる前に彼女自ら命を絶ってしまった――それ以来、女性を避け、車と学業だけに打ち込んでいた。
別に死んだ彼女に操を立てているわけではない。そんなものを涼介に望むような女性ではなかった。
ただ、踏ん切りがつかなかった。
童貞から脱却する機会は無限にあった。現在だってある。黙っていても女は言い寄って来るからだ。学校で、峠で、涼介はいつも女性の視線を集めている。が、それらを涼介は拒み続けている。
たった一晩寝ただけで女房面をされるのもイヤだし、決まった相手より車の方が今は楽しい。
何よりベッドの上で、自身の経験のなさが露呈して相手に上に立たれることを、恐れていた。
(まぁ……舌先三寸で何とかなるだろう)
別にあんな小娘一人、ベッドにまで誘わなくとも口車に乗せるのは簡単なことだ……と、涼介は思っていた。
自身の走り屋人生の集大成。弟・啓介のさらなるステップアップの為。
あの、涼介の嫌いな少女を誘うより他はないだろう。
手に余るという史浩の言葉が気にはなるが、あの幼馴染は何せ心配性だ。どうせいつもの取り越し苦労だろう、と。
そのくらいにしか思わなかった。その時は。
翌日の夜の10時過ぎ、涼介は渋川市内のある公園で、拓海と会って話をした。
バイト先のスタンドに出向き、「バイトが終わったら話がある」と拓海を誘ったのだ。
「……お食事、ですか」
ベンチに腰掛け、寒さに頬を少し赤くした拓海は涼介の「明日、大事な話をしたいから食事をしないか」という誘いにいぶかしげに答えた。
「ああ。……大事な話って言うのは車の話だ。悪い話じゃない」
拓海の前に立ち、涼介はつとめて笑みを作った。
「はぁ……車、ですか……」
「一度藤原と車のことでじっくり話したいと思っていたんだ。夕食を一緒に食べながら……いい店があるんだ。ドレスコードはそんなに言わないけど、ジーパンは、ちょっと困るかな」
ジャケットのポケットに両手を突っ込み、涼介は肩をすくめた。目の前の拓海の格好は、ベースボールジャンパーにジーパン、スニーカーにマフラーというボーイッシュな格好だ。
ファミレスでしてもよかったが、誰かほかの走り屋に見られてプロジェクトの出鼻を挫かれるのは御免だ。
個室のとれる店なら、人目をはばかることもないし、走り屋に会う可能性はきわめて低い。
「え、……こういう格好じゃだめなんですか」
「ああ。ファミレスじゃないからな。そうだな……ブーツとスカートとセーターくらいならまぁ大丈夫かな」
男性は最低でもジャケットという店だ。
「……オレ、こういうのしかないんですけど……。スカートなんて制服しか……」
拓海は穿いているジーパンの太股のところをちょっと摘み、困ったように下を向いた。
(……着る物にはあまり構わないんだな)
拓海と同い年の従妹の緒美は、会うたびに違う服を着ているしスカートも心配になるくらい短いというのに、拓海はいつも男の子かと思うような格好だ。峠で遠くから見れば、男だと間違えそうになる。実際、最初の内は拓海を男だと思っていた走り屋も多い。
女性は女性らしい髪型や服装の方がいい、というのが涼介の個人的な好みだ……その面でも、やはり拓海は涼介の嫌いなタイプだ。
暫く下を向いて考えていた拓海が、やがて顔を上げた。
「わかりました。友達に借ります……何時ですか」
「……6時に迎えに行くよ」
「オレの家、」
「ああ。知ってるよ」
ハチロクのボディには藤原とうふ店と堂々と書いてあるではないか。調べるのは容易だ。
「じゃあ、また明日……」
約束をして、別れた。
ほんの10分足らず話をしただけだったが、涼介は「やっぱりあの子は嫌いだ」と思った。
ああいう、何を考えているかわからないタイプの人間は、涼介の苦手な部類だった。
自分が優位に立ちにくい。啓介やケンタのように、考えていることが顔に出る方がよっぽど付き合いやすい。
翌日、大学が終わると涼介は友人たちの誘いを断り、急いで渋川へとFCを走らせた。
(……あまり気乗りしないな……)
既に決まっているメカニックの2人をを誘った時のことを思い出せば、気分はもっと弾んでいた。嫌いな人間を誘わざるを得ないのは、子供じゃないから我慢もできるが、いい気はしない。
(ま、仕方ないな……オレ自身の、そして啓介の為だ)
そう言い聞かせ、涼介はアクセルを踏み込んだ。
昔ながらの郷愁を誘うような緩い坂道の両側に軒を連ねる商店街。その真ん中辺りに、拓海の家はあった。
夕暮れ時で、行き交う人は多い。あちこちの店からおいしそうな匂いがし、威勢のいい商店主の声が飛び交う。
坂の下にFCを停め、涼介は目的の店まで歩いた。
藤原豆腐店と看板が出ていて、店の隣にはくだんのハチロクが停まっている。夕方ということもあり、看板には明かりがともっている。
店の前で、いつものようなトレーナーとジーパン姿の拓海が、ミニスカートを穿いたボブヘアーの女の子と立ち話をしていた。
友人だろうか。
女の子が拓海に紙袋を渡している。
「ありがと、茂木。助かるよ」
「いいよこのくらい、何時でも言って。あと、四分の三だからね、拓海くん」
「わかってるよ」
普段はボーっとしている拓海だったが、珍しく笑顔だ。同年代の友達といるときは、そんな感じなのか……と涼介は思った。
「あ……涼介さん」
紙袋を受け取った拓海と、茂木と呼ばれた友人が涼介に気付いた。
「じゃあね、拓海くん」
「ああ、恩に着るよ」
友人は軽く涼介に会釈すると小走りに去っていった。
(……四分の三?)
会話の中に出てきた言葉に、何だろうと涼介は思った。
「あの、ちょっと着替えてくるんで待っててくれますか」
拓海は紙袋を軽く掲げて涼介に訊ねた。
「ああ、いいぜ」
「すみません、5分でしますから……」
紙袋を手に、拓海は急いで店の中に入った。
その後姿を見送り、涼介は目の前にある古い豆腐屋を見上げた。
昔ながらの豆腐屋。横の駐車場にハチロクが停まっていた。
日の落ちた国道を、涼介のFCは緩やかに走った。
ナビシートに座る拓海は、先ほどまでのいつもの格好とは違っていた。
(馬子にも衣装、ってやつか)
涼介は横目でちらりと拓海を見て、薄く微笑んだ。
短い襞スカートからは、白く細い脚がすらっと伸びていた。ポンポンの付いたブーツを履いて。
上はAラインのコートに、胸元がVの字に開いてファーの付いた薄手のセーター。
その胸元が大きく膨らんでいる……思っていたより、胸は大きいらしい。谷間がはっきりと見える。
薄く化粧をしたのか、頬にはチーク。
「オレ、テーブルマナーとか知らないんですけど……」
「ん? 別に、そんなにやかましい店じゃないぜ。普通に出されたものを食えばいいんだよ」
さっき見た、あの古い豆腐屋の娘では、失礼は承知だがこれから行くような店は縁はないだろうなと涼介は思った。
「そうですか……」
「だから安心していいぜ」
「はぁ」
あの茂木とかいう友人から、拓海はこの服を借りたらしい。
「……涼介さん」
拓海が、涼介のほうを見た。
「何だ?」
「この車って、運転しにくいんですか?」
その問いに、涼介はフッと笑った。
「……まぁ、運転しやすいとは言わないな。啓介のFDもそうだけど、扱いづらいじゃじゃ馬だよ」
「へぇ」
拓海は涼介のステア操作を、じっと見ていた。
涼介の予約した店は、家族で時折食事に来るフレンチレストランだ。
母親が贔屓にしていて、月に一、二度は来ているだろう。両親は仕事の打ち合わせでも使っているからもっと頻繁だ。
高橋家はいつも個室で、今日もその部屋を予約した。
マナーに疎い人間と一緒だということは、予め店には伝えてある。だからフォークで気軽に食べられるような献立にして貰った。
拓海の機嫌を損ねてプロジェクト加入を断られては元も子もないからだ。
「すごいお店ですね。オレ、初めてですよ」
コートを預け、涼介の向かい側に座った拓海が少し微笑んだ。テーブルの上にはガラスの器にキャンドルが灯り、ゆらゆらと焔が揺れていた。
二人の大きくぼんやりとした影を、個室の壁に作っている。
「そうか」
涼介の視線は、拓海の胸元にいやでも向いてしまった。
綺麗な胸だ、と思った。とても大きくて柔らかそうで……。
(いかんな……藤原がこんな身体をしているとは思わなかったな……)
涼介は僅かに当惑した。
いつもあんなボーイッシュな格好をしているから、どうせ自分の身体に自信のない、ぺったんこの胸に寸胴のような身体を予想していたのだ。
それが、胸はあの通りだしウエストはきゅっと括れていた。脚もすらりと長い。予想と反対だった。
指で横髪を耳に掛ける仕草が思っていたより女くさくて、涼介は思わず視線を逸らした。
「料理は予め頼んであるんだ。今更だけど、嫌いなものはないか?」
「ええ、ありません」
何でも食べますよ、ウチ貧乏ですからと言って、拓海は目の前にずらりと並んだフォークやナイフを珍しそうに手にする。
涼介はアミューズ・ブッシュを持ってきたウエイターにそっと耳打ちをした。
「……県外遠征チーム、ですか……」
ソルベのスプーンを手に、拓海は明らかに困惑の色を顔に浮かべていた。
「そうだ。県外遠征チーム……冬を過ぎて、春から始動するんだ。北関東を制覇して、そして解散する期間限定のチームだ」
「はぁ……」
涼介からの県外遠征チームへの誘いに、拓海は「話が大き過ぎて」戸惑っているようだ。
「お前の力が……ドラテクが必要なんだ。チューニングやセッティングは本職の人間がする。作戦もオレが考える。かかる費用は、全てオレが持つ……金のことは心配しなくても、スポンサーが付いているんだ。藤原は、思いっきり走ってくれればいい」
「スポンサー、ですか……」
「ああ、そうだ」
2人の間で揺らめくキャンドルの焔をぼんやりと眺めながら、拓海は何か考えているのかそうでないのか分からないような曖昧な表情を浮かべた。
「……走るのは確かに最近とても楽しいんですけど……」
「だったら、この上ない条件だと思うぜ。北関東にはまだまだ凄い峠が沢山あるんだ。この先何年掛かっても更新できないようなコースレコードをたたき出して、伝説になるようなバトルを繰り広げるには、お前のパワーアップしたハチロクは最適だと思うんだがな」
「あの車は……オヤジのですから」
困ったように、拓海は微笑んだ。
「……返事は急がないさ。冬中、考えてくれて構わない。なんならオヤジさんはオレが説得したっていいさ」
返事はやはり即OKとはいかないらしい。
冬中、と涼介は大きく期間を設けた。
一昨日史浩には「一晩あれば」なんて啖呵を切ったのだが。
ウエイターが、ワゴンを運んできた。小振りな紙袋が二つ載っている。
先ほど前菜を持って来た際に頼んでおいたものだ。
「藤原と、その服を貸してくれた友達に土産だ」
「え、いいんですか……」
目の前に置かれた紙袋を手に、拓海の顔がぱあっと明るくなった。
「うわ、”アダム”の焼き菓子……」
なんだかんだといってもやはり年頃の女の子だ、甘いものには目がないらしい。
紙袋の中身は、予約しないと買えないことで有名な前橋市内のスイーツショップの焼き菓子の詰め合わせだ。
「”アダム”はこの店の系列だからな」
涼介の家はこのレストランの常連であるが故に、こんな無理も効くのだ。本来なら、直ぐに言って手に入るものではない。
「そうなんですか。茂木、このお店の一度食べて見たがってたから喜びます。オレもですけど……」
お菓子の入った紙袋を手に顔をほころばせる拓海を見て、涼介は気付いた。
(笑うと、割と可愛いな)
神経をすり減らす、限界バトルを繰り広げる峠での拓海の顔しか知らなかった。
古いハチロクとからかわれ、ぼんやりとしている顔しか。
峠での顔と、今こうやって向かい合っている時の顔は違う。
友人と話しているときも思ったが、案外普通の女の子なのかもしれない。
(いや……それでも苦手なことには違いないな)
緒美のように、喜怒哀楽をあからさまに露わにする女の子の方が扱いやすい。死んだ彼女も、そんなタイプだった。
普段はそうでもないのに、思いもかけない顔をひょこっと見せて戸惑わせるタイプはやはり苦手だ。
(……こんな小娘に負けたんだな、オレは……)
そう思うと、涼介は改めて腹が立つのを感じた。
その時、涼介の携帯がジャケットのポケットで震えた。
「……すまない、ちょっと電話してくるよ」
「あ、はい」
携帯を確認すると、大学のゼミの友人からの着信。
急ぎの用でもない限りは滅多に電話を掛けてこない相手だから、出たほうがいいだろうと判断した。
涼介は席を立ち、廊下に出た。
「もしもし……高橋だけど。どうしたんだよ、山崎」
『あ、高橋? あのさ、お前ゼミにノート忘れてるぜ』
「ノート?」
『ああ。明日の実習までに予習必須のトコだよ。余裕だな、随分と!』
「あ……」
そこまで言われて漸く涼介は気付いた。
拓海との食事に急ぐ余り、明日の実習までに必ず目を通さなくてはいけない事項を書きとめたルーズリーフの数枚を、ゼミに置き忘れてきたことに。額に手をあてた。
「しまった……確かに忘れてたな。悪い、教えてくれて」
『いや、いいんだよ。困った時はお互い様だろ』
友人は電話の向うで笑った。高橋らしくないな、と。
『お前の家にファックスしといてやるよ。それで大丈夫だろ、ノートはオレが持って帰っておいてやるから』
「ありがとう。悪いな」
『いいんだよ。それより高橋、そんな急ぐ用事だったのか? すげえ慌てて出て行ったから……』
「……ああ」
涼介は、拓海のいる個室の方をちらりと見た。
通話を終えて涼介が個室に戻ると、お互いの前にはシャンパングラスが置かれていた。
「涼介さん、これ可愛いですね」
拓海は楽しそうにグラスを掲げた。
「ああ、いいだろそれ」
ノンアルコールのシャンパンに、いちごが一つ浮かべてある。
琥珀色の液体の中で、気泡に包まれていちごはくるくると回っている。
「へぇ、面白い……」
席に着き、涼介は目の前にあるシャンパンを口にした。
「うちの母親が好きなんだよ」
(……粉っぽい?)
三口目に、涼介は違和感を覚えた。
いちごを浮かべたこのノンアルコールシャンパンは何度となく飲んだ味のはずなのに、今日の味は何故だか粉っぽい。
(おかしいな……)
グラスを目の高さまで持ち上げて底をじっと見ると、何か粉状のものが溶けきっていない。
(……――――!)
気付いた瞬間、涼介の視界が歪んだ。
パリン、と遠くでグラスの割れる音がした。
(しまった……)
そう思ったときにはもう遅かった。
急激な眠気と脱力感に襲われた。
大きな音を立て椅子から落ち、床に倒れた。打ち付けた体の左側が痛んだが、すぐに眠気が覆ってきて曖昧になった。
「涼介さん!」
拓海が涼介を呼んだ。その声すら遠い。
(薬か……)
涼介の瞼が、今まで感じたこともないくらい重くなった。
意識は眠りの世界へと引き摺り下ろされ……ぷつりと途絶えた。
「涼介さん、大丈夫ですか!」
椅子から立ち、倒れた涼介に拓海が駆け寄って、心配そうに揺さぶった。涼介は静かな寝息を立てている。
拓海がいくら揺さぶっても、目を覚ます様子はない。
「どうなさいました、高橋様!」
物音に気付いたウエイターが個室に入ってきた。倒れている涼介を見て驚き、「救急車を!」と慌てた。
「ちょっと気分が悪くなったみたいなんです。大丈夫です、涼介さんちの病院に連絡を入れて、オレが送っていきますから……」
拓海は救急車をと慌てるウエイターを宥め、会計を頼んだ。
倒れた涼介に寄り添う拓海の顔。
その顔が少し笑っていることに、ウエイターは気付かなかった。
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