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2・拓海
晩飯時に、須藤さんからオレに電話が掛かってきた。
それだけのことだったんだ、最初は。
まさかあんなことになるだなんて、思ってなかった。
「……訳わかんねえや」
受話器を置いて、オレは呟いた。
須藤さんから電話が掛かってくるだけでも驚きなのに、何かどころの騒ぎじゃなく、何かあって、オレと須藤さんが会って直接話をしなきゃいけないって一体どういうことなんだろう。
――オレ、頭悪いから全然わかんねえや。
須藤さんは明らかに取り乱していた。
涼介さんが、須藤京一はいつも冷静沈着で、って評価していたのが嘘のような取り乱しっぷりだった。
多分走り絡みのことなんだろうけど、……ってかそれ以外に目的は多分ないんだろうけど……須藤さんから直接オレにっていうのが理解できなかった。普通、車関係なら涼介さんを通すのが筋なんじゃないだろうか……オレは現在プロDのメンバーで、リーダーは涼介さんなんだから。
涼介さんをすっ飛ばすのは何か余程の理由があるのか……。
つーか、これって涼介さんに話通ってるのかな。もし通ってなかったら、須藤さんとオレとで会っちゃっていいのかな?
走り屋のお約束みたいなものってイマイチ良く分からないんだけど……。
ってか、まさか車以外の話?……まさか。いや。
「拓海。会社の人か?」
オヤジが訊いてきた。
「違うけど」
「プロなんとかいうトコの人か」
「でもない……プロジェクトDだよ、オヤジいい加減覚えろよ……掛かってきたのは、違うチームの人。栃木の人だよ」
ハチロクがブローしたときに戦ってた人だと告げると、オヤジはほぉ、と言った。
「そいつ何乗ってんだ」
「ランエボ」
「ランエボっつったっていろいろあんだろ、今7くらいまで出てんだぞ」
「スリー」
「ほぉー」
いい趣味してんなー、とオヤジは会った事もない須藤さんを褒め、オレはなぜかちょっと照れた。
オレはドキドキしていた。
理由はともあれ、須藤さんがオレに電話を掛けてきてくれたことがまず嬉しかった。
赤城でバトった時に抱いた想いをいろは坂でリベンジして確信し、ずっと心の底に押し込めていたのに。
諦めちゃいなかったけれど、背中を向けていた。
それがぶわっと吹き出した。ああ、どーしよ。オレ、普通でいられるかな……二人きりで会うなんて、こんなチャンスはきっと滅多にない……って、二人っきり、だよな?
行ったら涼介さんが涼しい顔をしてやあ藤原、とか笑顔でいるとか。
エボ4のロン毛の人が須藤さんの隣にいるとか。そういうがっかりはないよな? ……ないよな?
身支度より先に啓介さんにメールをした。本当ならこの後、会う予定があったから。
『急用で会えなくなりました、ごめんなさい』
簡単なメールだけれど、理由をああだこうだこねくり回すのは苦手だから内容は避けた。
ややあって、返信。
『了解』
たった二文字。ま、分かってたけど……オレはほっとした。
啓介さんにお許しをいただけたんだからこの後は、自由だ。
啓介さんは一応オレの現在の”恋人”だ――抱くのはオレ、あっちが抱かれる。
もっとも、京一さんと無理だろうなっていう後ろ向きな考えから始まった関係。あっちも、なんかそんな感じだったし……お互い心のどこかに本命をとどめた、割と緩い関係だ。
出掛ける準備を始めた。
話したいことは色々あるから、泊まるつもりで来いって言われたから、一泊分の準備。
「……下着、変えるかな」
着替える時、ジーパンを下ろして考えた。
いや。変だよな。でも……まぁ、一応。一応、だから。……一応。
小さな鞄に一晩分の着替えを入れ、下着を念のために変えて。
涼介さんに話がいってるのかとか、そういうことは須藤さんに直接聞こう。考えたって始まらない。
「オヤジ、ちょっと今晩帰らないかも……明日オレ仕事休みだから」
「ああ、気をつけろよ」
次の日が都合よくオヤジが豆腐の配達でオレの仕事が休みだったのは、神様の悪戯だったのかもしれない。
浮かれていたこの時のオレは、本当にお子様だった。
いい意味でも、悪い意味でも。
須藤さんが指定してきたサービスエアにハチロクを停めた。
平日夜のサービスエリアはトラックだらけだ。アイドリング中のトラックの間、探さなくても、ランエボは目立っていた。
イライラしているのが遠目にも分かった。ランエボのボンネットに腰をかけ、腕組みをしてタバコをふかしていた。
「……須藤さん、」
「藤原」
オレを認めると須藤さんは立ち上がった。久しぶりに会ったけど、相変わらず頭にタオル巻いて、背がでかい。
何食ったらこんなになるんだって位、筋肉質な身体なのが服の上からでも良く分かる。
脱いだらすごいんだろうな、とか思ったら……やばい。顔、赤くなってきてるかも。
「済まねぇな、急に。乗ってくれ。細かい話は移動しながら話す。先に言っておくが、涼介は通してない。通す時間が惜しい」
「あ、はい……」
須藤さんのランエボに乗れる。それだけでオレの心はまた弾んだ。やっぱり、車の話らしくて涼介さんは通してない……。
ナビ側のドアを開けると、むっとしたタバコの匂いが鼻をついて息が詰まった。パネルの下のアッシュトレイにつっこんだ吸殻の数にオレは驚いた。
「早くしろ」
「はい……」
急かされ、慌てて乗った。
須藤さんは気が急いているんだ。
甘い空気を期待してきたオレは、ああそれどころじゃないんだ、と気づいた。
ランエボは高速を疾走した。
峠じゃないしオービスもあるから無茶苦茶はしないけれど、それでも結構ギリギリな走りだ。
トラックの間を縫うように車線変更を繰り返し、ミスファイアリングシステムが後ろで破裂音を立てる。
追い抜いた軽四の中で主婦らしき女の人が驚いていた。
「どんな、人なんですか? その人」
須藤さんが、「ジーンという走り屋のことだ」と、今日の本題を切り出したのは……いや、口を開いたのは走り出して20分近く経ってからだった。やっぱり、走り屋関連か。
オレは名前も知らない、そんな走り屋……北関東、いや関東甲信越辺りまでの有名な走り屋の名前や映像は、涼介さんに見せられて一応目を通した。
でもいなかったよな……そんなヤツは。
「ジーン……外国の人ですか?」
「いや、日本人だ。ジーンはあだ名……サトウハヤテって名前でな。ハヤテは……迅速の迅って書くんだ。」
「じんそく……」
「こう、ほら、中に十を……」
須藤さんが指で空に字を書く。
「あー、なるほど……」
あだ名がジーンだって……かっこつけてんな、そいつ。
「東堂塾でオレの後輩だった。同じランエボ乗りでな……何せ、嫌なヤツだった。」
「……そうなんですか」
そういえば須藤さんは東堂塾出身だって涼介さんが言ってたな。
「一言で言うとだな……最低最悪な走り屋だ」
最低最悪、と一刀両断した京一さんの横顔に、オレは怯んだ。
「東堂塾は多少のダーティーなことはやってた。社長が元プロだからな……峠の素人の集まりじゃやらないのがお約束でも、プロなら当たり前のことは認められてたんだ。けどな、」
――けど。
そいつは度を越していたんだという。
チーム内であることないことを言いふらし、仲間内がギクシャクする。
その辺までならまだガキだけど。
同じ東堂塾の塾生がバトルをする際、相手にこちらの手の内を教えて、塾生を負けさせ、相手から金をせしめる。
その逆もする。相手チームにスパイなんて、朝飯前だったらしい。
勝手に塾生の車のセッティングを変え、負けに導く。勿論相手からは金をせしめている。
塾と他チームとのフリー走行に割り込んで、多重事故を誘導する。
先輩の女を寝取る。
「……最悪じゃないですか、そいつ!」
オレは思わず声を上げた。
須藤さんの言ったのはほんの一部分だと言う。
「最悪だろ。そうやって色々やっておきながら、証拠を綺麗に隠すものだから誰もそれがジーンの仕業だとはわからないんだ」
須藤さんはタバコを咥えて火をつけた。走り出してから何本目だろう。アッシュトレイがもう零れそうになっていた。
よっぽどイラついてんだなってわかった。うちのオヤジもだけど、イラつくとタバコの本数が目に見えて増える。
きっと須藤さんも、ふだんはここまでのペースじゃ吸わない筈だ。
「え、でもフリー走行に割り込んだとかなら分かるでしょう……車が、」
「どっかから車を勝手に拝借して来るんだよ」
「……」
「知らないドノーマルの車がいきなり無茶苦茶な運転で割り込んできて、びっくりして多重事故……だ。誰も走り屋だとは思わないだろう」
「……そんなこと……なんのために……」
「ただの気まぐれだとよ……」
別に美学があるわけでもない。
なにか復讐しなくてはいけないこともない。
そいつはただ、「気まぐれ」に敵味方関係なく壊していき、飽きたら他所に行く。そんなヤツなんだと須藤さんは纏めた。
「何よりジーンは……不幸を伝染させるんだよ」
「不幸の……伝染?」
「ああ」
不幸の伝染って……何そのオカルトチックな話……。
「社長は……胃を三分の一切る羽目になった。トモはプロ入り前にケチがついて今も振るわねえ。ジーンのせいで峠を去った塾生は多い。兎に角な、ジーンは人を不幸にする天才なんだよ」
「……はぁ……」
人を不幸にする。
なんか、ちょっとおかしな方向に話が進んでいるような気がしなくもない。須藤さん、変な宗教とか入ってないかなこの人……家についたら壷とか飾ってたらどうしよう……。
「す……須藤さんは、なんかあったんですか」
オレは上ずった声で訊ねた。
丁度高速の降り口にさしかかった。料金所手前、ランエボはゆっくりゆっくりと速度を落とし、数台並んでいる後ろに停車した。
「……オレはな……」
須藤さんの左手がシフトから離れ、左足のカーゴパンツの裾を捲くった。
「……!!!!」
そこにあったものに、オレは驚きを隠せず両手で口元を覆った。
「これがオレに来た"不幸"だ」
痛々しいほどの古傷。
抉れたような、大きな傷があった。
「……ジーンが去り際に、オレとトモのフリー走行に割り込んでな。2人で事故った。トモはたいしたことはなかったが、オレはこのケガが元で……纏まりかけていたプロ入りの話を断らざるを得なかった」
裾を下ろし、また左手はステアに戻った。
「ジーンの悪事が露呈したのは、あいつが去ってからだった」
そんなヤツが、電話で京一さんに言ったんだと。
京一さんとプロジェクトDと、その後東堂塾を潰す……と。
オレは目を付けられた。
不幸を伝染させる男に。
オレの背筋を、寒いものが走った。
栃木のとある住宅街に須藤さんの家があった。
二階建ての庭付き一戸建て、といえば平凡だけれど、新築のようだった。
ガレージにランエボをバックで入れた。
エボから降りたオレは初めて訪れる須藤さんの家をまじまじと見た。
「……へぇー……須藤さんってここに住んでるんですか……」
「ああ」
ベージュの壁。
よく手入れされた芝生の庭。パンジーの咲いたプランターがある。
七人の小人の可愛らしい陶器のオブジェが玄関脇に。
お洒落なアルファベットの字体の表札。
一瞬、奥さんと子供がいるのかと思った。だってそんな感じの家だったから。
でもたしか独身だって涼介さん言ってたよな……。
「ご家族の方は……」
念のため、聞いてみた。
「いや、オレ一人だ」
もしかして嫁さんに逃げられたのかなと思った。
「実家はすぐ近くだ。エボがうるせえって姉貴が言うんでな、なら一人暮らしするっつったら、オヤジとお袋がこんな家建ててよこしやがったんだよ。頭は払うから後は払えって、勝手な話だろ」
「……へぇ」
――ちょっと、ホッとした。
そういえば涼介さんや啓介さんもあの車でご近所には多大なご迷惑を掛けてらっしゃるご様子だ。
こんな車、確かに実家じゃ親に小言を言われるのは間違いないだろうな……それを思えばウチって走り屋的には天国かも。なにせオヤジが嗾けやがるんだもんな。
「家建ててくれたんですか、凄いですね。須藤さんちって」
「……無言のプレッシャーってやつだ」
さっさと身を固めろってことだ、と須藤さんは苦笑した。
確かにそういうことなんだろうな……。
家族用のワゴンが停まっていそうなガレージには物騒な黒いチューンドのランエボ。
子供の三輪車やブランコがありそうな芝生の庭には、整然と並ぶタイヤと工具。
「ふぅん……」
親の圧力なんて何のその、だ。
期待は見事に裏切られてる感じがして、ちょっと笑いそうになった。
「身、固めないんですか?」
試しに訊いてみた。
「今はコイツだけだよ」
コツン、と、エボを軽く叩き、須藤さんが入るか、と促した。
……もしかして、オレの付け入る隙はあるかもしれない……と、期待が膨らんだ。
「あれ……」
須藤さんに続いて玄関に入ると、ばかでかいワークブーツが何足も並ぶたたきに、小さなスニーカーが一足、あった。
「京兄ィ、帰ったの?」
高い声がして、ひょこっと出てきたメガネを掛けた幼い顔。
一瞬女の子かと思った……けど、男の子だ。華奢で小柄。どこかの学校の制服……中学生かな。
「和八、来てたのか」
「うん」
小柄な男の子が、須藤さんを京兄ィと呼んだ。上がり口に座って靴を脱ぐ須藤さんに「京兄ィ、サンダル間違えて爺ちゃんの履いて帰ってたから」と言って、その傍に立つ。
「……そうだったか?」
「そうだよ。京兄ィ、すごい慌ててたじゃない」
「……ああ。慌ててたことは事実だ」
かずや、と呼ばれたその中学生くらいの男の子は、玄関口で突っ立ってるオレをチラッと見た。
こういうとき、一人っ子って不利だ。
知らない人がいると、身の置き所が分からない。
須藤さんは靴を脱ぎながら、和八と呼んだ男の子がオレを見ていることに気付き、「藤原、コイツはオレの弟だ」と後ろを指して紹介してくれた。
「あ、どうも……藤原拓海です……」
弟……。
どんな遺伝子の悪戯ってレベルでその子は京一さんとは超絶似てなかった。
「……藤原さんて、エンペラーの人?」
「あ、いえ……違います、けど」
なんで明らかに年下に敬語なんだよオレ……って思ったけど、須藤さんの弟だ、我慢しないとな……。
固い表情の須藤さんの弟は、なにか言いたげにオレをじっと見ていた。
「コイツは違うチームだ。ちょっと走りのことで話があってな」
「ふぅん……あ、京兄ィ。冷蔵庫におかず入れてあるから」
「ああ」
須藤さんの弟はそのまま、すぐ近くだという実家に帰った。
その子はオレの脇を通り抜ける時、オレの顔をまた見た。
「……」
その、言いたいことを喉の辺りでとどめているような顔に、オレはあまりいい気がしなかった……須藤さんの弟、だけど。
家族の写真が飾ってありそうな玄関には、やはりランエボの叩き売りのようなエンペラーの集合写真があった。
リビングに入ると、車一色だった。
ジムカーナやレースのポスターが壁に貼ってあるし、写真はパネルにして飾ってある。
やっぱり親の期待も圧力も効果はないようだった。
「座れよ」
二人掛けのソファに座ると、須藤さんが隣にどっかりと座ってきた。
うわ。近い。すげー近い。
車の中より近かった。腕が当たる……体温、高いんだな……あったかい。
やばい……すごいドキドキする。
「……座ってる場合じゃねえな」
気付いて、須藤さんはすぐに立ち上がって、大型の液晶テレビの下からビデオテープを取り出し、セットした。
そしてリモコンを手に、またオレの隣に座った。
だから、近いんだってば。
このまま抱きつきたいくらい……近い。
見せてくれたのは、ダビングしたという映像。
遠くからのアングルで……峠の上からだ。
素人撮影なのが丸わかりのあまり状態の良くないものだった。
塩名のあの道だろうか。
数台がフリー走行をしている。シルビアやシビックやレビン。いかにもなエキゾーストの音とスキール音。
塾生の練習走行だという。
その間を縫うように走る、一台のシルバーのステーションワゴン。運転手は件のジーン。
普段のジーンは赤いランエボだという。
「こういう車をな……どっかから勝手に拝借して乗り込んで来るんだよ、あいつは」
「はぁ……」
カメラがステーションワゴンにズームする。ステーションワゴンが縫うように走った後、シルビアを初めとする塾生の車は次々とバランスを崩し、衝突する。
「……え?」
訳が分からなかった。
一転して、車載カメラの映像に切り替わる。
チューンドの証拠の計器類が画面の下辺りに。『今日はいい感じです、走行会も近いのでタイムを縮めます』と、運転手らしき人の弾んだ声。
目の前にいきなり飛び出してくるステーションワゴン。
バランスを崩す、撮影主の車。
急ブレーキの音。運転手の絶叫。
画面がブルーになり、砂嵐に……。
「……なにこれ……」
「こういうヤツなんだよ……ジーンは」
京一さんはため息をついた。
ステーションワゴンは、上から見た走りじゃそんなに変な走りじゃなく見える。
ただ、車載カメラの方。
本当にいやらしいくらいの邪魔の仕方だった。いきなり目の前、それも超ギリギリ真横に滑ってきて。
ドライバーが驚いてバランスを崩した所で、綺麗にあっさり去っていく。
「オレもこれにやられた……トモもな」
そういって足を組んだ須藤さんのカーゴの裾から、あの傷がちらっと見えていた。
「裏切りジーンって言ってな……」
京一さんが恨みを込めて、ソイツに付けたあだ名だという。
裏切りジーン 2
(続)
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