海と山に挟まれた、鄙びた小さな漁師町はまるで三日月のような形をしていた。
東京の方から来たと言う、兄弟と言いながら名字の違う、どちらも男前だけれど顔の似ていない青年二人。
二人がこの町に移り住んできたのは三年前の秋のことだった。二人は漁協の目の前に居を構えた。もう何年も借り手のいない、小さな庭と六畳ほどの離れがある貸家だった。
兄は涼介といい、その離れで子供相手の小さな塾を開いた。『高橋学習塾 生徒募集中』という、几帳面さがうかがえる字で書かれた紙を門扉に貼った。張り紙の隅には、『高橋涼介 群馬大学卒業』と小さく書いてあった。
弟は拓海といい、貸家の目の前の漁協で運転手のアルバイトを始めた。その経緯は一寸滑稽で、漁協のATMのドアに貼ってあった『臨時運転手募集中 経験者優遇』の張り紙の下でうろうろしているところを不審に思った漁協職員に声を掛けられたのだ。
「藤原」「涼介さん」と呼び合う、へんてこな兄弟だった。
彼ら曰く、家庭が複雑で母親が違っていて、大人になるまで離れて暮らしていたのだと言う。
この兄弟の身の上をもっと知りたがる者もあったけれど、彼らは多くを語ろうとしなかった。
兄の塾の生徒は最初はたった一人だった。
それは町でたった一つの電器屋の一人息子で、塾に通い始めてすぐの学校でのテストで、学年でたった一人の百点を取った。それから塾の生徒はあっという間に増え、今や六畳の離れは手狭になっていた。
運送会社に勤めていたという弟の方は、愛想はそれほどよくないし無口な方だが、漁協での仕事振りは真面目で運転技術は確かだった。朝の早さも厭わなかった。いつだったか漁協の役員に運転技術を褒められた時、「涼介さんのほうがオレよりもっと上手いんです」とはにかみながら俯いていた。
夕暮れが近づくと、漁協の前の家の離れには明かりが灯り、小さな自転車が町中から集まってくる。
漁協の仕事を終えた拓海は帰路ともいえぬ短い距離――道路を横切るだけ――を歩いた。
朝、水平線から登った太陽は、町の西側を覆う山の陰に隠れ、夜がすぐそこまで迫っていた。
帰宅してまず彼がしなければいけないことは、離れの前の庭に乱雑に停められた生徒達の自転車の整理だった。
「ったく……」小さく呟き、拓海は道路にまで溢れた自転車を整えていく。「ちゃんと停めろって言ってんのになぁ」
言っても聞かないんだよなー、と拓海は誰にも聞こえぬ声で言った。
カーテンを閉めた離れからは、子ども達の笑い声や涼介の低い声が聞こえている。
自転車を整える音に気付いたのか、カーテンの裾が小さく捲られ、見知った少年の顔が覗いて拓海に手を振った。
拓海が手を振り返したのと殆ど同時に、『こら、翔太!』と涼介が少年を叱る声がし、生徒達の笑い声がそれに続いた。
自転車の整理を終え、拓海は家に入った。
居間の明かりを点け、薄汚れたカーペットの、ローテーブルの脇にごろんと横になった。
うんっ、と伸びをし、ジーンズのベルトを緩めた。
六畳ほどの居間にはローテーブルと小さなテレビ、安物のカラーボックスがあるだけだ。
横倒しにしたカラーボックスには隣町のリサイクルショップで買ってきた小さなCDラジカセと、古本屋で買ってきた中古のCDが何枚か並んでいた。
薄汚れたカーペットと色褪せたカーテンと、濃い色の壁と天井がそれらを囲み、立て付けの悪い引き戸が居間と台所を隔てていた。
「今日何かあったっけ……」拓海は横になったまま、床に置きっぱなしのテレビガイド誌に手を伸ばしてぱらぱらと捲ったが、めぼしい番組はなさそうでガイド誌を閉じてローテーブルに置いた。
その時、何か硬い紙が手に触れて拓海はそれを引き寄せた。
「……ハガキ?」
漁協の金融部からのハガキで、拓海に宛てたものだった。
真ん中を糊付けされたハガキを開くと、『定期預金満期のお知らせ』だった。
三年満期で預け入れていた十万円が来月満期を迎えるという通知で、雀の涙ほどの利息が付き、その利息からしっかり二割の税金が引かれていた。
ここに越してきて間もない頃、漁協に勤め始めて何日目かに預け入れた十万円だった。
キャンペーンやってるからよかったらどうぞ、と休憩時間に金融部の女子職員に渡された定期預金募集のチラシに、じゃあやります、と拓海はその場で契約を決め、運送会社の退職金の半分を預け入れたのだった。
契約を三年にしたのは、三年後もここにいるかどうかを確かめたかった気持ちがあったからだ。
「そっか、もう三年……経ったんだ――」
拓海は三年前を思い出した。
涼介に手を引かれ、名前も知らないこの町に来た、三年前のことを。
***
プロジェクトDが終了して二度目の秋のことだった。
お月見会と称した元Dメンバーの飲み会が高崎の居酒屋で行われた。
Dの終了後も、やれ新年会だ花見だバーベキューだと、何かと理由をつけては集まり近況を報告して騒いで呑んだ。D時代の映像を見て懐かしみ、あの頃はああだったこうだったと語り合い、写真を見て笑いあう。昔話は何よりの肴だった。
飲み会の殆どの言い出しっぺだった啓介はD終了と同時にプロの世界に足を踏み入れ、日本と海外を往復する生活を送っていた。
幹事の史浩は教職に就いていて、少し太ってジャージ姿が板についていた。
宮口は独立し、自分の修理工場を陸運支局のすぐ裏に構えたばかりだった。
ケンタはカーディーラーに勤め始め、スーツが窮屈だとぼやいていた。
涼介は群大付属病院の新米医師として多忙な日々を送っていた。
拓海は運送会社の勤めを続けていたが、念願のプロ入りの話が纏まりかけていた頃だった。
この日の欠席者は一名。
結婚が決まったばかりの松本だった。
プロジェクトDの頃からそうだったように、職業がバラバラという事情から時間通りに全員が集まることは少なかった。
不文律の様に先に来た者から勝手に呑み始め、好きな肴を注文し、全員が揃って改めて乾杯。その頃には一人くらいはとっくに潰れているという有様だった。その日も同じで、しかしいつもと違っていたのは一番乗りが拓海で、二番目に涼介が来たことだった。拓海は真ん中辺りに来ることが多く、涼介に至ってはしんがりのことが多かったから珍しいことだった。
『今日、珍しいですね』
『何がだ?』
居酒屋の個室で、涼介の空のグラスにビールを注ぎながら、拓海は思ったことをそのまま口にした。
『いや、涼介さんがこんなに早いなんて、珍しいなって』
『ああ……そうだな、確かにいつもは大トリだからな。……今日は早く帰れたんだ』
『そうなんですか』
いつもはケンタか史浩か啓介が一番乗りを競い、全員が揃う頃にはケンタか啓介のどちらかが潰れていて、しんがりの涼介がわざと足蹴にしていた。
ビールを一気に煽った涼介は、この前の飲み会の時よりも幾らか痩せたように見えた。痩せたと言うよりやつれたと言った方が正解かも知れない。そして消毒液のような匂いがした。
『そういう藤原もいつも早い方じゃないだろう? 今時分、運送会社は忙しくないのか?』
『今は繁忙期ですよ。年末ほどじゃありませんけど。でも今日は早番だったんですよ、だから4時上がりで――』
代わりに朝が5時出勤で、と言いかけて、涼介が夜勤や数日家に帰れないのが当たり前であることを思い出し、言うのをやめた。
涼介はふふ、と笑い、伸びた前髪をかき上げた。
プロジェクトDの頃から涼介は忙しい身だったが、医師になってその忙しさには益々拍車がかかった様だ。
大学生の頃はいつもぱりっとした格好をしていたのに、今日の涼介はくたくたのワイシャツで、襟口が少し汚れていた。
『なぁ、藤原』
空になったグラスを音をさせてテーブルに置いた涼介が、妙に改まった。
ずい、と身を乗り出し、テーブルを挟んで向かい合う拓海に顔を近づけた。ビール一杯で酔う筈はないのに、涼介の目は据わっていた。
『……はい』
拓海は小さく返事をした。
『あのな、藤原』
『はい、』
『実はだな』
『はぁ』
――どうしたんだろ涼介さん。ビール一杯しか呑んでないのに……酔ってんのかな……。
やけにもったいぶる涼介に、拓海は小首をかしげた。
少なくとも涼介は下戸ではなかった筈だ。上戸という程でもないが、たかがビール一杯で飲まれるクチではなかった。
まさか此処に来る前に飲んだわけではないだろう。
――仕事が忙しくて疲れてるから、あれっぽっちで酔っちゃったのかな……。
拓海はそう思った。いつもビール瓶の二三本とワインの一本をセットで空にして、尚且つ割り勘を一円単位まで暗算でしていた涼介なのだから。
『実は藤原に、折り入って相談があるんだが……』
漸く涼介が語り始めた時、テーブルの隅に置いた拓海の携帯が震えた。
拓海は横目でチラッとそれを見遣った。閉じたシェルの小窓に『メール一件受信 史浩さん』の文字が見えたが、多分もうすぐ着くというような内容だろうと思い、拓海は視線を目の前の涼介に戻した。
『相談、ですか……』
『ああ。実は……』
ようやく涼介は語りだした。
それは相談と言う名の、誘いだった。
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