それから数時間後、個室の空気はタバコの煙とロースターの煙で白くにごっていた。
全員が揃った頃に潰れていたのは涼介で、啓介が海外土産の紙袋を両手にやって来た頃にはすでに鼾をかいて熟睡していて、啓介が幾ら揺さぶっても起きる気配は無かった。
結局涼介は個室の隅に転がされ、壁に向かってその長身を丸め、史浩のコートを掛けられ眠っていた。
『今日の寝太郎はまさかのアニキかよ』啓介が笑いながら言った。潰れて眠ってしまった人間を、彼らの中では何時からか寝太郎と呼ぶようになっていた。
『藤原ァ、アニキどんだけ飲んだ?』
『えっ。……そんなに沢山飲んでないんですけど……ビール一杯でもう酔ってましたから……疲れてるんじゃないんですか?』
啓介に尋ねられて拓海はそう答えた。
『ビール一杯で? 嘘だろぉ?』生春巻きを手に、啓介は驚いた。
『嘘じゃありませんよ。涼介さん、なんか変なテンションでしたから』
拓海は唐揚げの最後の一つに手を伸ばした。すっかり冷めた唐揚げを頬張っていると、隣で宮口と盛り上がっていた史浩が振り返った。
『……藤原』
『はい?』
史浩が声のトーンを落としたのが、拓海には分かった。啓介は隣のケンタと生春巻き談義をしていて、拓海との会話は途切れていた。
『涼介、お前に変なこと言わなかったか?』
『変なことって?』
宮口がトイレ、と席を立った。
『……今日、松本来てないだろ。』
『ええ、そうですね』
『アイツ、こないだ涼介と二人で飲んだらしくてさ。その時涼介に変なこと言われたらしいんだよ。それで今日来てないんだけどな』
『……変なことって、何ですか?』
『それがだな――あ、これはオフレコだぞ……涼介のヤツ、松本に"一緒に逃げてくれ"って、言ったらしいんだよ……』
『――はぁ』
"一緒に逃げてくれ"
その言葉に、どくんと拓海の心臓が跳ねた。はぁ、という声が裏がえった。
『何でも色々嫌なことがあるから、オレと一緒に逃げてくれって……涼介のヤツ、松本にそう言ったらしいんだよ。松本は酔ってたし、酒の席の冗談だと思って、いいですよって軽く返事したんだと。話題もすぐに変わったらしいんだ。けど、次の日の朝の6時に……』
史浩の話の続きはこうだった。
次の日の朝6時、二日酔いの松本の部屋に、海外旅行にでもいけそうな巨大なスーツケースを携えた涼介が現れ、『さあ松本、逃げようか』とニコニコしながら松本に身支度を促したのだと言う。
何の冗談ですか? ああ昨夜の話ですか。あれはジョークでしょう? 逃げるって、そもそも何なんですか?
と布団に包まったまま尋ねた二日酔いの松本に、涼介の笑顔は忽ちの内に消え、代わりに今まで見たことも無い程の怒りを露わにしたらしい。
涼介のの口からは聴いたこともないような罵詈雑言がその口から次々に飛び出し、松本に浴びせられた。元々涼介は毒舌な方ではあったが、毒舌と言うよりそれはもうただの悪口だったらしい。最後にお前の顔はもう見たくないと捨て台詞を吐き、松本の部屋の本棚を思い切り蹴り飛ばして穴を開け、スーツケースを引きずって帰っていった……というのが一連の話らしい。
『お前、まさか涼介に言われて無いだろうな? "一緒に逃げてくれ"とか……』
史浩は拓海の顔を覗きこんだ。
『……いえ、別に……』
『……』
拓海は俯いて否定した。史浩は暫くの間、俯いた拓海を凝視していたが、やがて『だったらいいんだ。変な話してすまないな、藤原』と漸くその話から拓海を解放してくれた。
『まあ、涼介も疲れてるんだろう。忙しさが尋常じゃないらしいし。もしかしたら心が折れそうなのかもしれないな……』
涼介の幼馴染で従兄でもある史浩は、壁に向かって丸くなって眠る涼介を見遣った。
『そう、です、ね……』
拓海も涼介を見た。
その心臓は、ドキドキと早鐘を打っていた。
――なぁ、藤原。お前、オレと逃げてくれないか?
史浩が到着するほんの5分前。
涼介は拓海にそう尋ねていた。
逃げるって、何からですか? と拓海は質問に質問で返し、涼介は笑って、身の回りの全てからだよ、と答えた。
『明日の朝迎えに行くから、身支度をしておいてくれよ。逃走資金ならオレがたんまり用意してあるんだ』と涼介は言い、鞄から通帳を一冊取り出して広げ、拓海に手渡した。
『うわ……』新築のマンション一部屋位なら買えそうな金額が残高欄に打ち込まれていた。
『それは全部逃走資金に充てるつもりだ。でもあんまり派手にやるとアシがつくから、まあ最初は質素に……暫くは潜るつもりだ。とりあえず住む町の目星はつけてあるから、海が良いか山が良いか、藤原が選んでくれ』
『…………涼介さん、あの、オレ……』
拓海は掌に汗を掻いている自分に気付いた。
『何だ? 藤原』
『……』
――仕事があるんですよ。プロ入りの話が進んでるの、知ってますよね? って言うかその話、涼介さんが進めてくれてたんじゃないんですか? それにウチ父子家庭で、オヤジが最近体調悪くて入院するかもしれないんですよ。後、この間言いましたよね、彼女が出来たって……。
沢山の断るための理由――全て偽りの無い、正当な理由――を言いかけて、拓海はそれらを全て飲み込んだ。オレ、から先の言葉は言えなかった。拓海が返した通帳を片手に笑みを浮かべる涼介には、それを言わせない、ある種のオーラのようなものがあった。
そして翌日の早朝。
涼介は宣言通り、本当にやって来た。
白いFCではなく、タクシーで。
海外旅行にでも行けそうな巨大なスーツケースを携えて。
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