海辺の町
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昨日今日の話ではない。
自分は医者にならなければいけない運命だと気付いてからずっと。
とても長い間、もう気詰まりで仕方なかったのだ……と涼介は打ち明けた。
医者の家に生まれた。だから医者になるしかなかった。しかし本当は、医者になりたくはなかった。だが親は、世間はそれを許してはくれなかった。仕方なく、医者になるより他はなかったのだ、と。
親や周りが望んだ通り医者になって、働いて、認められて、それでも心はちっとも満たされなかった。
敷かれたレールの上を走るしかない人生。医者になりたくなかったと、酒の席で誰かに零しても、なりたくてもなれない人がたくさんいるのに贅沢な、下を見ればきりがないのに、あんな素晴らしい仕事を……と、いつも的外れのアドバイスしか帰ってこないのもイヤだった。分かっている、自分は贅沢を言っているのだと、わがままなのだと、医者は素晴らしい仕事なのだと言うことくらい。
その代わり、大学時代に勉強以外の日常の全てを捧げた走りの世界は楽しかった。あんな楽しい日々は無かった。走りがあったから、医学部の厳しい日々にも耐えられたのだ――と、涼介は、窓の外ではなく、目の前で膝を抱えている拓海を見ながら、三十年ほどの己の自分の人生について、語った。
「わがままな男のたわごとだと思って聞いて欲しい」
そう、前置きして。
拓海はただ、それを頷いて、聞くだけだった。
「お前を誘ってこの町に来た頃……オレは、死にたいと切実に思っていたんだ。それで、どんな風に死ぬかを毎日考えていたんだ……」
首を吊ろうか、いや、早朝の電車に飛び込むか……死に方を模索した。医者として知識はふんだんにある。苦しまずに死ぬ方法、死体が割りと綺麗に保存される方法等を探った。ひとまず、大量の薬物を手に入れた。
が、ふと思った。
どうせ死ぬのなら、少しの間だけでも、好きに生きればどうだろうと。
葬儀で親不孝の誹りを受けるのは分かっている。もしも天国や地獄があるのなら、天国にいけないことも。ならばせめて、死ぬまでの間少しだけでも、自分の好きに生きてみたいものだ、と。
自分のことを知るもののいない地域で、好きなことをやって暮らして、そしてそこで死ぬ。
涼介は決めた。そうしよう、と。
大人の男一人が見知らぬ土地へ越すのは何かと注目されてしまう。ならば、家族がいれば自然だろう。なにより自分の死を身内に知らせて欲しい……と思い、同行者を考えた。だから、まずは手近にいた、松本を誘った。
しかし松本は涼介からの誘いを冗談だと思ったらしく、最初は失敗した。
次に、目をつけたのが拓海だった。
信頼できる不動産屋に大金を払って口止めし、FCを預け、有り金をかき集め、群馬ではない遠い場所……この町で、拓海と暮らし始めた。
拓海が海がいいと言ったから決めた、海辺の町で。
暮らし始めたのはいいがただ家にぼおっといるのも疑われる。小さい頃、啓介に漢字や計算を教えて親に褒められたことを思い出して、塾の看板を掲げることを思いつて、塾を始めた。
自分に着いてきてくれた拓海も働き出し、偽りの兄弟としてこの町で暮らし始めた。
何処でもいいと思って選んだ町だったが、とても居心地のいい町だった。
みんな、見ず知らずの自分たちを受け入れてくれる。子供達も懐いてくれている。
――そうこうする内、気付けば三年が、過ぎていた。
「……三年、長かったな」
涼介が言い、拓海が頷いた。
「そうですね……でも、あっという間でした」
拓海は俯いた。
三年。
二人の間には、確かに変化があった。
肉体関係を持つようになった。この町にすっかり馴染んだ。たった一人の生徒から始まった塾は、今では子供達が沢山で手狭になってしまった。
何よりも、涼介と拓海は、今では惹かれあう仲になっていた。
涼介の死にたいと思う気持ちは、知らないうちに薄れてしまい、今は「生きたい」という気持ちに変わった。
大切な拓海がいるから、生きようと思えるようになったのだ。
「今は生きることが楽しいんだ。お前がいてくれて、良かった」
伸びてきた涼介の手が、拓海の腕に触れた。
「涼介さん……」
「有難う、藤原」
こんな自分と、ずっといてくれて、と涼介は言った。涼介の声が震えているのは、拓海の気のせいだろうか。
「なあ、藤原」
涼介は、拓海の腕を掴んだ。
「はい」
「……今から群馬に帰ってみようかと思うんだ。もう一度、医者をやろうかと思う……」
「り・涼介さん、」
拓海は驚いた。涼介の口から、群馬に帰るという言葉が出るだなんて、予想だにしていなかった。
「三年も音沙汰も無くて……きっと、叱られるだろうけれどな……」
今の日々は楽しい。しかし、嫌で仕方なかった過去から「逃げている」のだ。もう一度真正面から向かい合いたいのだと、涼介は言った。
苦笑した涼介に、拓海が釣られてて小さく笑った。
「オレも、涼介さんといる間はあっちに連絡全く取ってないんですよ、叱られるのはオレも同じです……一緒に叱られましょうよ、群馬から出て行けといわれたらまた何処かで二人で暮らしましょう、ね……」
「ああ」
拓海は涼介の手に、そっと頬を預けた。
温かい手だった。
「実は――オヤジが、死んだんだ」
思いがけない涼介からの言葉に、拓海は息を呑んだ。
「え……」
「ひき逃げだったんだ」
涼介はシャツの胸ポケットから出した、不動産屋からの手紙を拓海に渡した。
拓海はそれを受け取り、読んだ。
涼介の父がひき逃げされたという新聞の切り抜きと、不動産屋の手紙。
「お前を好きだと自覚して、……群馬に帰ろうかと思った矢先の手紙だった……皮肉なものだよ」
うっ、と涼介が嗚咽した。
「折角、生きたいと思えるようになったのに……医者を辞めて、勝手に家を出て連絡も取らなかった不幸を詫びられると思ったのに……ッ!」
両手で顔を覆うと、涼介は水を掛けた砂の様に崩れ落ちた。
「涼介さんっ!」
拓海が慌てて、涼介を抱きしめた。
あああ……と、いい年をした大人の男は、拓海の前でみっともなく、声をあげて泣いた。
「オヤジの死に顔も見られなくてッ……オレはッ……、オレは……ッ!」
「涼介さん、涼介さんッ……泣かないで、ね……泣かないでください……オレが、いますから……」
拓海の胸の中で泣く涼介は、まるで小さな子供のようだった。
人生とはそういうものなのかもしれない。
拓海は、泣きじゃくる涼介を抱いたまま、思った。
上手く行かないことだらけで……だから人は、寄り添いあう相手を欲するのだ……と。
涼介の泣き声すら、穏やかなはずの波音がかき消していく。
「ずっと、ずっと傍にいますから……」
「藤原ッ……!」
宥める拓海の声に、偽りは無かった。
三年の間にはぐくんだ、涼介への思い。
何も生まなかった三年間ではなかったのだ。
涼介は一晩中、泣いた。
冬が近づいた、ある日の早朝。丁度、漁協の休業日だった。
顔の似ていない、名字の違う兄弟の住む家は、この町の誰もが知らないまま、この朝、空き家になった。
兄が経営していた塾には、「三年間、お世話になりました」と言う旨の、彼直筆の張り紙がされていた。
この町に来て良かった、子供たちは自分がいなくなってもどうかこれからも勉強を頑張って……という長い文章が書かれていた。
弟の方は、漁協のポストに名札やロッカーの鍵、そして退職しますとだけ書いた紙を入れた封筒を投函した。
町の誰にも挨拶もなく、二人はどこかへと去っていった。
塾の集金日の、漁協の給料日の前の日だった。
小さな海辺の町で、その二人の失踪は大きなニュースになった。大好きな涼介先生と拓海先生がいなくなって子供たちはわんわん泣き、大人たちはあれこれと詮索し、噂をした。いい子たちだったのに何かあったのかと、首を傾げた。
隣町の駐在に二人の行方を探してくれと訴える人間さえあった。
二人の正体を知る者は、結局誰もいなかった。
二人がいなくなった後も、海辺の町では其処に暮らす人々が、海を生業として暮らしていた。
時折、誰かが、海の仕事の合間に、あの兄弟のことを口にする。
「あの子たちはいい子だったねえ」
「また帰ってくればいいのにねぇ」と。
小さな海辺の町は、二人が消えた後も変わらずにずっとあった。
全ての始まりである海がすぐ傍にある、弓なりの、とても優しい町は。
(海辺の町:終わり)
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