……長い夢だった。
散らかった自室の真ん中にあるベッドで、オレは目を覚ました。まだ肌寒い春先だっていうのに、ぐっしょりと汗を掻いていた。
「……なんなんだ、あれ……」
全力疾走した直後の様に鼓動が早くなっていた。喉がカラカラに渇いていた。声も、掠れていた。
長い夢だった。そして、とてもリアルな夢だった。重い体を起こすと、オレは恐る恐る、左の掌を見た。
……あった。
羽根の形をした、火傷の痕のような痣。それは夢で、『天使』とやらが言った通りだった。
『ハローハロー。どーも初めましてっ』
ふざけた夢だった。
男だか女だか分からない顔と声のヤツが、手をひらひらさせながら声を掛けてきた。そこは上も下も右も左も全部真っ白な空間で、オレは明らかにふわふわと浮かんいた。
「……何だよ、お前」
疑いの眼差しを向けると、そいつはやおら手帳のようなものを広げて読み上げた。
『高橋啓介二十一歳、O型、住所は群馬県高崎市M町2の1。愛車はFD3S、私立大学生、やや左曲がりのMAX十八センチ好きな体位はバック、右利き、お風呂に入るとまず頭を洗う、性格悪し……』
「おいっ、なんなんだよお前っ!」
人のプライバシーをなんでそんなに知ってるんだよ。しかもやや左曲がりから後の部分。
『ああ、申し遅れました。ワタクシ、俗に言う天使っていうヤツです、はい』
天使と名乗ったそいつは、ぺこりと頭を下げた。
「……天使? あの、天使と悪魔の、天使?」
『はい、天使です。まぁ下っ端なんですけどね。天使ですから、あなたのことは何でも知ってますよ? 高橋啓介』
フルネーム呼び捨てとかムカつく野郎だ。いや野郎なのかコイツは?
ニコニコ笑顔のそいつは、手帳のようなものをパタンと閉じた。
……怪しい。怪しすぎる。マジ怪しい。つか天使だから何でも知ってるとか。
「お前、さ。ホントに天使なわけ?」
『はぁい。なんなら免許見せましょうか?』
「天使に免許がいんのかよ!」
『最近は資格社会ですからねー』
「……資格云々よかさ、背中に羽根がねえじゃん。天使って言ったら羽根だろ、フツー」
『あれは宗教画だけですぅ』
「羽根ねぇのかよ。んじゃあ飛べねえんじゃねえの?」
『飛ぶ必要なんてありませんから、生えてないんです。はいこれワタクシの免許証』
「何だそりゃ……」
天使はパスケースのようなものを取り出してオレに見せてくれた。
「なぁ、オレさぁ、コレとよーく似たもの持ってんぞ。アニキもオヤジもお袋も!」
見せてくれたのは顔写真入りの、どう見たってコレ運転免許証じゃねえのって代物だった。なんでカードサイズ。なんで証明写真の背景青いんだよ。
「しかもゴールドかよ。ってか免許証日本語かよ……で、お前オレのこと何でも知ってるって?」
天使に免許を返すと、怪訝な顔で疑い再開。
『はい、知ってますよ。ええと……』
天使とやらは、再び手帳を広げた。
『そうですねえ。あなたが大学入試の時に国語でカンニングしたとかー……確か『秩序』って漢字がわかんなかったんですねぇ。えっと、毎日お兄さんのパソコンでエロ動画を見てるとかー。……あ、こないだエロい動画見ててパソコン固まって慌てましたよねー。あとは先週の日曜日にお母さんの財布から一万円札抜いたとかー。去年の十一月にお父さんのベンツを擦った真犯人だとかー。こないだ従妹の緒美ちゃんを車に乗せた時に緒美ちゃんが寝てる隙に太腿をこっそり触ったとか、なぁんでも、知ってますよ?』
「……て……てめぇ……!」
なんだ。
なんだってんだ、コイツ。
何でオレが隠してること全部……アニキのパソコンでエロ動画はまだしも(いやホントのことなんだけど)、カンニングとかお袋の財布から一万抜いたとかオヤジのベンツ擦ったとか緒美の太もも触ったとか……どれもこれも誰も見てなかったはずなのに、どうしてコイツが知ってるんだ!
『ってわけでぇ。信用してくださいます?』
また、パタンと手帳を閉じ、そいつは首を傾げた。
「……そ……それだけじゃ信用できねえよっ」
内心、心臓バックバクだった。けど、強がってみた。そんなんでいちいち信じていたらオレは間違いなく騙されちまう、と自分に言い聞かせて。
『あらあらあら。疑り深い人ですねぇ……高橋啓介』
天使はわざとらしい位、困った顔をした。
『うーん、そうですねぇ。信じていただけませんか……ワタクシが天使だってこと』
「ああ、信用できねえなっ! つけてるだけで金持ちになれるとかいうブレスレットの広告並みに信用できねえよっ!」
『じゃあ、なんならワタクシが天使だってのが本当だって証明しましょうか』
「そ・そんなのできんのかよ……」
へん、と天使を睨みつけてやった。天使はフフン、なんてふざけた笑顔でまた手帳を捲る。
『えっと。明日の午前十時。政治家のS氏が急死しまーすっ。コレは、ある人の願いでワタクシの同僚の天使が手を下すんですがね。まぁ人を呪わば穴二つっていいますから。もっといい願いをすればいいのにねぇ。こんなんじゃ、願った方は畳の上じゃ死ねませんね』
「政治家のSって……何か色々黒い噂のあるヤツじゃねーか」
『はぁい。いろーんな人から怨まれてるんですよねぇ、この人。で、この人に財産を騙し取られた人が天使に選ばれて願ったんですねー。それで手を下す、と』
「……天使が手を下す? そんな黒いコトすんのかよ、天使は」
『ええまあ色々――でぇ、ついでに言いますとですね……スバリ! 高橋啓介、アナタは天使に選ばれたんですね!』
ビシッ、と天使はオレを指差した。
「人さまを指差すんじゃねぇよ。選ばれたって、どういうことだよ」
『ふふーん。詳しくはまた明日。とりあえず選ばれた証として、左の掌に羽根の形の痣が浮かびまーすっ。それでは今日はこの辺で、ハブ・ア・ナイスデー。さようなら〜』
天使は手をひらひらさせて消え、――オレの意識はふっと持ち上がった。
「なんだってんだ……」
ふざけた夢の内容を反芻したオレは、汗をかいた掌を見てため息をついた。痣は確かにそこにあった。
枕元の時計を見たら、十一時過ぎだった。まさか、と思って部屋を出、隣のアニキの部屋をノックして、返事を待たずに勝手に入った。
オレの部屋のテレビは少し前にぶっ壊れた……ツレとの宅飲み会でふざけて蹴っちまってから、うんともすんとも言いやしねえんだ。
「なんだ啓介。今起きたのか」
「うん……おはよ」
とっくに起きていたアニキはデスクに向かっていて、パソコンに何かを打ち込んでいた。デスクの近くにあるテレビは昼のニュースをやっていた。
「なに? どうしたんだよ。すげぇ騒ぎだけど……」
テレビの中はカメラのフラッシュと怒号、罵声が飛び交っていた。どこかのビルの前。見たことのあるレポーターが何かを叫んで今の状況を伝えようとしていたが、そのレポーターが真っ直ぐ立っていられないくらい人が押し合いへし合い、偉い騒ぎになっている。
「ああ。今さっき、政治家のSがテレビの生放送出演中に、……急死したんだ」
「……――!」
背筋を、寒いものが一気に走った。
「へ、へぇ……死んだって……何時くらい?」
オレ、声裏返りそうだ。
「十時丁度だそうだ。朝の情報番組のコメント中に、胸を押さえて蹲ったらしい」
丁度画面が切り替わり、その情報番組の例のシーン、政治家の死の瞬間になる。
偉そうなツラをして、週刊誌に黒い噂を書きたてられても平然としていたその政治家はジャーナリストやタレントと議論を交わしていた。『私はですね、この法案で……』と言いかけた時、政治家は急に胸を苦しそうに押さえて蹲った。咄嗟にカメラがスタジオの天井に向けられ、悲惨な場面を映すまいとする。しかし声だけはどうにもならなかったのか、苦しそうに呻く政治家の声に、『どうしました!』『大丈夫ですか!』『おい、救急車だ!』『カメラ止めろ!』というスタッフや出演者の慌てた声が重なる。
「救急車が到着したときには、もう事切れていたそうだ」
アニキはそう言うと、「悪いやつは畳の上じゃ死ねないんだよな」と皮肉を口にし、プリンターのスイッチを入れた。
「へ、……へぇ……」
オレは画面に釘付けになっていた。
「――あ……」
画面はまた、政治家が死ぬ瞬間をリプレイした。
二回目に、オレは気付いた。カメラが天井に切り替わってすぐ。断末魔の悲鳴のように政治家が呻く画面の隅を、ひらひらと舞うもの……羽根、だ。
――天使……。
かねてから黒い噂の絶えなかった政治家が、生放送中に急死。センセーショナルな事件が、画面の向こう、でも同じ空の下、本当に起こった。
『えっと。明日の午前十時。政治家のS氏が急死しまーすっ。コレは、ある人の願いでワタクシの同僚の天使が手を下すんですがね。まぁ人を呪わば穴二つっていいますから。もっといい願いをすればいいのにねぇ。こんなんじゃ、願った方は畳の上じゃ死ねませんね』
あのムカつく笑顔が頭に浮かんだ。アイツの言ったことは……本当……だったのか。
「マジかよ……」
左手を、ぎゅっと握った。
「どうしたんだ、啓介」
「え、」
「顔真っ青だぞ」
アニキがオレを怪訝そうに見た。
「……お前がそんなに政治に興味があるとは思わなかったな」
「あ、いや……ほらオレ一応大学生だしさ。世の中のことにもちょっとは興味あるよ、そりゃ」
乾いた笑いで誤魔化しながらも、オレの心臓はバクバクだった。痣が、僅かに疼いた。
その夜、予告通りアイツはまたオレの夢に出てきた。
『ハローハロー。如何でしたぁ?』
「イカもタコもねぇよ……マジで死にやがったじゃねーかっ! びびったじゃねーかよっ」
政治家の死は心臓発作で片付けられた。まあ年が年だし、色々病気はあったらしいんだけど。
『これで信じてくださいますぅ?』
「……信用するしかねえだろ……で、何の用だよ。選ばれたって、どういうことだよ」
『はい。まぁ早い話がですね。ノルマがあるんですよねーワタクシ達にも。毎年一人をランダムに選んで、願い事を叶えてあげる代わりにその人の大切なものを頂くっていう、そういう仕事をしないといけないんです』
……なんだそのギブアンドテイク。つーかノルマってどこのサラリーマンだ。
『等価交換ってあるでしょ。そんな感じです。ほら、少し前にそういうマンガが流行ったじゃないですかぁ。錬金術の。あれ、面白かったですよねー』
「随分俗なこと知ってんだな……オレも読んでたけどさ」
あ、最終巻アニキに貸したまんまだな。また返してもらわねえと……。
『下界のことは何でも知ってますから。でぇ、毎年天使一人に付き一人の人間を選ぶんです。今年ワタクシが選んだのはズバリ! 高橋啓介、アナタなんですねぇ〜拍手〜』
パチパチパチパチ。わざとらしく天使は拍手をしやがった。
「……オレかよ」
『はい。今年は極東地区から選ぶことになってるんです。てなわけで、高橋啓介。アナタ、なにか願い事ってあります? できればビッグな願いの方が、こちらとしてはやりがいもあるしポイントも高いんですよ。あ、これボーナスの査定にも影響するんで……』
「ポイントってなんだよ。ボーナスとか言うなよ。つーか天使にボーナスなんてあるのかよそんなもん」
『下界も天界もモノを言うのはコレですから』
天使は指でわっかを作った。……金、か。あんのかよ天界に。
『今日のように、嫌いな人を殺すことも出来ちゃいますよ?』
「……殺したい位憎い人間はいねえよ今んとこ……っつかオレの年でそんなんいたらやべえだろ」
願い、とか。急に言われても困るな。
ウチ自慢じゃねえけど金持ちだし。でっかい家も別荘も車もあるし、リゾートマンションもある。生まれてこの方生活に不自由した試しはないんだよな……まぁグレた時期もあるけど、それも目標が見つからないとかそういう裕福が故の贅沢な悩みから来たもんだしな。
「願いか……そうだなぁ。強いて言えば、プロのドライバーになりたいんけど」
『うーん、そういうのは自分で叶えてナンボですからねえ。ポイント低いんですよねー』
「……じゃあ億万長者」
『それも同じ理由で。ってかアナタのおうち充分お金持ちじゃないですか』
……なんだそりゃ。叶える気ねぇだろコイツ。
「じゃあ、どんなのがポイント高いんだよっ!」
怒り半分に言うと、天使はまた手帳を広げた。
『そうですねぇ。例えば、……今の時点でアナタとその周りで、確実に起こると決まっているトラブルがあるんですねぇ。それを回避する、とか。そういうのはポイントも高いんですけどねー』
「……具体的には?」
『えーと。高橋啓介三十歳…お兄さんが結婚詐欺に引っかかりそうになる……これはほっといても未遂で終わるからなー。さかのぼって……二十五歳。お父さんの愛人が家に乗り込んでくる。うーん、こういうのはちょっと……どちらかといえばお父さんの試練ですしねー』
……アニキが結婚詐欺に引っかかりそうになるのか……あとやっぱりオヤジ、愛人いたんだな……。
『あ、これなんかどうかなあ。4月●日、藤原拓海、交通事故で死亡』
――――え?
「……何、だって?」
突然天使が口にした名前に、オレは耳を疑った。
『だから。藤原拓海、A型。渋川市Y町五丁目、藤原文太長男。現在十八歳。有限会社渋川運送に就職したばっかり。四月●日朝五時、ハチロクを運転してレイクサイドホテルから自宅へ向かう途中、秋名山の峠で対向車線からはみ出してきた大型トラックと衝突、他数台の乗用車も巻き込まれるが藤原拓海のみ死亡。ってか即死――ってなってるんですけど』
天使は淡々と読み上げた。渋川市。藤原文太。渋川運送。ハチロク……。
藤原拓海。ふじわら、たくみ……。
藤原が。
交通事故。
死ぬ。
その言葉に、オレは……言葉を失った。
『こういう人命救助っぽいやつはポイント高いんですよー』
天使は手帳を何度目かに閉じ、いかがですか? と訊いてきた。
藤原、が。
死んでしまう。
(続)
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