ならばどうする高橋啓介

目覚めたのは朝六時だった。普段のオレなら絶対に起きない時間だ。
 本来なら藤原はもう死んでいる時間だ。確か事故は朝の五時って、天使は言ってた。オレは恐る恐る、枕元の携帯に手を伸ばした。そしてこの間登録したばかりの、藤原の番号を呼び出して掛けた――が、いつまでもコール音が鳴るだけで、ちっとも繋がらなかった。
「もしかして……!」
 回避とか言って回避されてないんじゃねえかコレ……!
 慌ててパジャマ姿のまま部屋から出た。アニキの部屋をノックするもいないし、鍵掛かってる……いねえのか。階段を駆け下り、リビングに飛び込んだ。
 扉を開けると、アニキとお袋と家政婦さんの三人がテレビの前に陣取って、文字通り食い入るように画面を見ていた。オヤジは一昨日から学会で不在だ。
「――三人して何見てんの?」
 キッチンのやかんはシューシュー湯気を吹き出してるってのに、三人とも画面に夢中だ。お袋は頭にカーラー巻いたまま、アニキはパジャマ姿で食パン片手に、家政婦さんはお玉を片手に。
「おはよう、啓介」
「おはようございます啓介さん」
「あら啓介早いのね」
 三人ともオレの方を見ない。
「……なぁ、お湯沸いてるよ」
 オレはキッチンに廻ってコンロのつまみを切った。
「酷い事故だな……」
 アニキが事故、と言った。はっとして、慌てて画面を見た。
「事故?」
 テレビのチャンネルは朝のローカルニュースだった。ヘリから撮影した、山道に横転し炎上する二台のトラック。そしてそれに挟まれ、ぺしゃんこになった数台の乗用車の映像を流していた。画面の隅には『生中継』の文字。
「これって……」
 慌ててアニキたちの傍に駆け寄ったオレの声は……震えていた。その山道は、確かに見覚えのある風景だった。

「秋名の峠で大きな事故があったんだ」画面を見たまま、アニキが言った。
『今朝五時頃、秋名山の県道●号線で発生した大型トラックと乗用車の多重衝突事故の影響により、……』
 女性アナウンサーの冷静な声が、事件の概要を伝えていた。
 大型トラックが二台と、それに挟まれて数台の乗用車が多重衝突事故を起こしていた。
「怖いですわねぇ、奥様、よく通る道じゃありませんか」
「本当にねぇ。あんなのに巻き込まれたら普通は即死よ……涼介も啓介もクルマで走るのはいいけど、気をつけなさいね」
 家政婦さんとお袋の会話の、即死、という単語に……オレは急速に喉が渇くのを感じた。
『大型トラックを運転していた運転手は双方とも軽い怪我でしたが、乗用車の――』
 奇跡的に、トラックの運転手はどちらもたいしたことはなかったらしい。しかし挟まれた乗用車数台はぺしゃんこ、命こそあるものの怪我は酷いらしい。
 テレビには藤原の名前もハチロクの名もなく、オレはほっとした。
 ――良かった……回避されたんだ……。
 ホッと胸をなでおろすオレの傍で、アニキが食パンを齧りながら首を傾げた。
「さっきから藤原に電話を掛けてるんだが、繋がらなくてな」

「――結局、昼過ぎまでホテルにいたんですよ。たまたま空いてる部屋があったんで、そこでいさせて貰いました」
 その日の夕方、プロDの打ち合わせ場所のファミレスで、不本意ながら今日の主役になってしまった藤原はため息をつき、甘いコーヒーを啜った。

 ――藤原は事故には巻き込まれなかった。
 ただ、朝っぱらから大々的に群馬と近郊県に放送されたあのニュースを見て、藤原がレイクサイドホテルに豆腐を配達に行っていると知る人はみな心配した。その心配は当たり前と言えば当たり前だ。
 というのも、ただの事故というだけじゃなかったからだ。
 事故の火が燃え移って軽い山火事になり、消防車がわんさか出るわ、おまけにトラックの荷物には可燃性の物質が満載、消火中にその物質が軽く爆発し、それもばっちりニュースで生中継された。 しかも現場はレイクサイドホテルからそれほど離れてはいない場所だった。
 朝から藤原の携帯には心配した人間からの大量のメールと着信があって、藤原はようやく家に帰れてもその対応で午後は潰れてしまったらしい。
 峠は事故と山火事の影響で、未だに通行止めになっていた。
 事故現場にほど近いレイクサイドホテルに豆腐の配達に行ってた藤原は、事故の時間は偶然、ホテルに居たらしい。
 事故に遭わなかった代わりに家に帰れず、今日は欠勤になって入社早々皆勤が飛んだと肩を落としていた。
「帰れなかったのは災難だが、事故に巻き込まれなくてよかったな」
 史浩がしみじみ言うと、藤原は「確かにそうなんですよねぇ」と俯いた。
「いつもなら、豆腐を配達し終わってすぐに帰るんですけど、今朝はたまたま……板長さんが卵焼きの味付けを変えたから食べてみてくれって言われて、オレと支配人さんで食べたんです……そしたら空きっ腹にちょっと食ったせいで腹が鳴っちゃって……板長さんがおにぎりもくれたりなんかしてたら時間が過ぎて……」
 恥ずかしそうに藤原は頭を掻いた。
「腹の虫のお陰で命拾いってか」
 史浩が苦笑した。藤原はコクリと頷いた。
「いつも通りすぐに帰ってたら、事故に巻き込まれてたってわけか」
 アニキの言葉に、藤原は再び頷いた。
「五時なんてドンピシャであの場所ですよ。事故ったトラックの上ってきてた方は、よくすれ違ってたんで、ドライバーさんの顔も知ってたし」
「こえーな……」
 宮口が呟いた。
「藤原、おまえ運いいな!」
 ケンタが藤原の背中を叩き、松本は「九死に一生ってやつだな」とほっとしたように笑った。
「オレも家で朝のニュース見てびっくりしたよ。もしかしたら藤原が巻き込まれたんじゃないかって。携帯に幾ら掛けても繋がらないし……」
 アニキが苦笑した。あの後、アニキは藤原の携帯に何度も掛けていた。
「すみません涼介さん……携帯、持ってなくて」
「携帯は家に置いていたのか」
「ええ、朝の配達くらいなら。だって、あんな時間ふつーは掛かってこないでしょう?」
「まぁな」
「だから置いてたんですけど、帰ったら会社から友達から涼介さんから……着信いっぱいでしたよ。あ、啓介さんも、ありがとうございます」
 藤原がオレの方を向いてにこりと笑った。
 オレはドキっとした……。
「普通は藤原が何か巻き込まれてないか、って思うよ。オレもよっぽど掛けようと思ったもんな」
 史浩が笑った。
「オヤジも近所の人も心配して山の下まで迎えに来てくれてました。でもオレより、チェックアウトできなかったホテルのお客さんの方が大変だったみたいで……ツアーだったから、色々スケジュールが詰まってたんですよ」

 皆は藤原の無事を喜んでいた。
 藤原も大変な一日だったと言いながらも、ほっとした顔を見せていた。

 オレは……何も言えなかった。

 あの「天使」とやらの言ったことは確かだった。
 本当なら藤原は、あの事故に巻き込まれて死んでたんだ。
 オレが回避した……藤原への気持ちを気づかれない、誰にも伝えないことと引き替えに。オレはそっと掌を見た。羽根の形の痣は……まだ、あった。

「啓介」
 アニキに名前を呼ばれ、オレははっとして顔を上げた。
「え、あ……」
「どうしたんだ」
「いや……別に。ドラマみたいだな、って……そういうことって実際にあるんだな、って思って……巻き込まれなくてよかったな、藤原」
 オレは月並みなことしか言えなかった。
 藤原は小さく笑って、「ありがとうございます」と頷いた。


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