つじぎみ・むすこ(後編)



手洗い用の水場の上だけ明かりをつけた店の中は薄暗い。
壁に天井に染み込んだ豆腐と油の臭いがしんと冷えていた。
店は来訪者のため、半分シャッターを開けていた。文太は人を待っている。
シンクに置いたバケツに、勢いよく水を満たしていく。重くなったバケツを足下に置き、また次のバケツに水を満たしながら、文太はもう五分もすればここにやってくるだろう男のことを考えていた。
ついさっき、人を使って文太を呼びだし、自分を息子にしてくれと願い出てきた涼介のことを。


少し前に一度だけ、涼介は拓海に連れられて弟の啓介と共にこの店を訪れた。
涼介率いる走り屋の県外遠征チーム。拓海がそれにドライバーとして参加する、その挨拶のためだ。
インターネットのホームページで対戦相手を募り、北関東中に遠征してバトルをするという、文太の若い頃では考えられなかった方法をとる。
走り屋というのは普通なら全員で走るもののはずだが、涼介が率いるそれは走り屋というにはあまりにも本格的で、プロのメカニックを二人、機材を運搬するバンを三台も用意しているらしい。
ちゃぶ台に置かれた遠征チーム用のバンの写真にはデザイン性の高いステッカーも貼ってあり、まるでプロのレーシングチームのような構えだと、文太は驚きを通り超して呆れのため息を零した。
遠征に掛かる費用は全てこちらが持ちます。ガソリン代もチューニングや部品の費用も食事代も宿泊費も何もかもです。拓海君には手ぶらで来て貰っても構いません。ハチロクはだいぶ弄らせて貰いますが構いませんか、いずれメカニックを寄越しますから細かなことは彼の口から、と涼介が一通りを説明した。車に思う存分乗りたい人間からすれば、夢のような待遇だ。

それに対し、拓海のことは自由にしてくれていい、ハチロクはいずれ拓海にやるつもりだったから、配達に支障がない程度なら幾ら弄って貰っても構わない、朝の配達にさえ間に合えば何も文句は言わねえぜ、と文太はまず了承を与えた。
涼介がありがとうございますと頭を下げる寸前に、親の金でタイヤ削ってガスまき散らかしてプロの整備士まで集めて、何が一大プロジェクトだと決して軽くはない皮肉を口にした。
頭を下げかけた涼介は、微笑を湛え、言われるであろう皮肉に対してあらかじめ用意してあった答えを述べた。

親の金はいっさい使いません、この資金はオレが稼いだ金ですし整備士は有志ですから、と。
お父さん、今流行のベンチャービジネスってご存じですか? と涼介は突然話題を変えた。
他所の大学で経済をやっている友人が始めたんですよ。IT系なんですが。これからはインターネットの時代ですからね。オレはアイデアと、貯めていた小遣いから何口かの出資をしたんですが、これが当たったんです。メインの資金はその分け前です。どうせ泡銭ですから、形に残ることに使いたいと思いまして。残りの資金は、馴染みのショップにスポンサーを頼んだんです。プロジェクトDのホームページに広告を載せて広告料を取るのと、ハチロクとFDの部品を格安で提供してもらって、ホームページでバトルの結果と共にその部品をショップ名付きで紹介するっていうやり方なんですが。
セールストークのような巧みな口上だった。
頭のいい兄ちゃんだな、と文太は感心し、納得した。
ベンチャーがどういうものなのかは知らないが、投資に対する正当な配分なら文句はない。学生の起業家は最近ニュースでもよく目にする話だ。
それにスポンサーとはいいアイデアだ。それこそプロのレーシングチームだ。しかしそのスポンサーのアイデアは、勝ちつづけなければ離れていくだろうやり方だ。
きっと余程の自身があって、ずっと勝ち続けるつもりなのだろう。
ならさっきの言葉は取り消しだな、すまねぇな、まぁ頑張んな、と文太は言った。
そしてその時、ふと違和感を覚えた。
涼介がじっと自分を見つめていたのだ。
ちゃぶ台を挟んで、左から啓介、涼介、そして拓海と並んでいた。涼介は文太の真正面だった。
瞬きもせず、涼介は文太を見つめていた。じっと、脳裏に焼き付けるように。
なんだ、コイツ。
そういえばさっき、涼介は文太のことをお父さん、といった。
その、お父さん、という言い方に文太は尻がもぞもぞするような可笑しなな気持ちになった。
気持ち悪いな。文太は啓介に話を振ることにした。そっちの金髪の兄ちゃん、お前さんは学生か? 訊ねると、そうですオレ大学生です、と啓介は人懐っこく笑い、気さくに答え、足を崩した。
その後は世間話だった。
拓海と文太と啓介の三人が話していた。
涼介はただじっと文太の顔を見つめていた。
その視線は、文字通り突き刺さるようだった。



そういえばあの時、おかしい男だと思っていたのだ。
けれどそれは頭のいい奴にありがちな、ちょっと変わった個性だと思って気に留めないようにしていたのだ。
あの時からあの男は、息子にしてほしいと願っていたというのか。
文太は寒気がした。そうだ。ジャンパー。店に忘れてきたと気付いたが、もう遅かった。



気配がした。
それは案の定、店の前で止まった。
開いたシャッターの隙間から、さっき見た革靴と深い色のデニムの長い脚が見えた。
入れよ。
文太が声を掛けた。半分のシャッターをくぐり、現れたのは涼介だった。シャッター、閉めろ。涼介はうなずいてシャッターを閉めた。 お父さん。ワイシャツの肩に文太の靴の跡をつけたまま、涼介は文太をうるんだ目で見つめていた。
うす暗い店の中、二人の距離は三メートルもあっただろうか。文太は手洗い用の水場の前で足下に二つの、水を満たしたバケツを置いて涼介に対峙した。
最初から言え。いつからだ? 文太がまず訊ねた。

いつから、オレをオヤジだと思っていた? あの日拓海と来て会ったのが、オレとお前の初めてだろう? 質問は三つだった。
ずっと前からです。ずっと前から、オレはあなたのような人をお父さんと呼んで、息子にしてもらいたかったんです。確かに、あなたと会ったのはあの日が初めてです。涼介は順番に答えた。

訳、わかんねえな。初めて会ってどうしてオレがおまえの理想のオヤジだってわかるんだ。シンクの縁に手をつき、文太はため息をついた。答えは答えにはなっていなかった。
それは……あの日、お父さんに会う前に、藤原……拓海君に、あなたのことを聞いて、あなたがオレの理想の人だと確信したんです。 涼介が一歩、前に足を踏みだした。
拓海はオレをなんて言ったんだ? 文太が再び訊ねる。

普段は頑固で無口で、お金はそんなになくて、でも車には造詣が深くてもちろん走るのも早くて、優しくて……。
それから、と続けようとして、涼介はあの日の衝撃を思い出した。あの日、拓海に文太のことを聞いたときの衝撃は、忘れることができないものだった。
それから? それだけか? 
それから……お酒とたばこが好きで、それから……。
バン、と金属が震えた。文太がシンクの縁を思い切り叩いたのだ。涼介はビクッと震えた。
なぁ、兄ちゃんよ。お前、オレのことを理想のオヤジだっていうけどな。一体全体、オレのことをどれだけ知ってるんだ。オレがどうして豆腐屋をしてるか知ってるか? 女房に逃げられた理由を知ってるか? ハチロクを選んだ理由を知ってるか? 優しい? どこが? どういう風にだ? ……笑わせんじゃねえよ。
矢継ぎ早な文太の、畳み掛けるような質問と、刺さるような言葉。……それは全くもってその通りだった。 ああ、……オレ、お父さんが何で豆腐屋をしてるかを知らない……。奥さんに逃げられた理由も、ハチロクを選んだ理由も、どんな風に優しいかも……。
涼介は絶句した。
ほら見ろ、知らねえだろうが。何せ本物の息子の拓海だって知らないことだからな。んなことも知らねえで、表だけをさらっとなでこくって、知った風な口をきくんじゃねえよ。
文太の口調は次第に荒く、そして声は大きくなっていった。
お前はオレが理想だって言うけれどよ。オレのことはタバコと酒が好きな豆腐屋の、車がちょっとばかり早ぇオヤジだって、たったそれっぽっちしか知らねえじゃねえか!!




最後は叫びだった。その瞬間、涼介の視界が歪んだ。
バシャァッ、と、激しい水音。痛いほどの衝撃。叩きつける冷たさ。
涼介はバケツの水を浴びせられた。




……。暫し唖然としていた涼介は、文太が空になったバケツを放り出したカランという音で何事が自分に起こったのかを、漸く理解した。 放り出されたバケツが転がり、汚れた竈に当たった。
額に張り付く前髪、身体に張り付くシャツとスラックスと靴下と下着。動かすとぐじゅぐじゅと音を立てる革靴。身体のあちこちから、水がボタボタと零れる。涼介は自分が濡れているのだ、とやっと気付いた。
おとう、さん? 涼介は文太を見た。文太は怒っているように見えた。そして別のバケツを手にしていた。それにも水が八割方入っていた。
頭、冷やせ。低い声で文太は言い、二杯目を涼介に浴びせた。



全くよぉ……何だって自分の思い通りになってきたお坊っちゃんの発想らしいぜ。


ふん、と文太があざ笑った。



涼介は、水ではないモノがはらはらと頬を伝っていくのを感じた。視界がまだ歪んでいた。
――オレだって。
――ああ?

涼介は、しゃくり上げながら、濡れた拳を握り、声を震わせた。


――オレだって、思い通りにならなかったことくらい、沢山あります。人並みに、あります。
医者になんて本当はなりたくなかったけど、家業だから仕方ないって思って、医者になることにしたんです。
走りだって、ホントはもっとしたいんです。プロDだって自分がドライバーになりたかった。けど医者にならないといけないから、学業の為に啓介と藤原に譲ったんです。オレの走りは最初から終わりが決まってるんです。
走りだけじゃないですよ。人に嫌われたことだって、苛められたことだって、裏切られたことだって沢山ありますよ。
弟がぐれて家の中が大変になったことだってありますよ。お袋は男作ってるし……大体のことは仕方ないと、諦めました。そういうものだって。
でも、一つくらいは譲れないものが、諦めきれないものが、誰だって、あるでしょう? オレにとってはそれが、あなただったんです!
 例え、あなたのことをほとんど知らなくたって、オレにはあなたが一番なんです! 知らないならあなたのことをオレに教えてください!!



―――涙声だった。




すみません、取り乱して……お邪魔しました。お休みなさい……お父さん。
やはり文太のことをお父さんと呼び、涼介はびしょ濡れのまま、袖で目元をぐいと拭い、シャッターを少し上げ、出て行った。






嵐は過ぎ去ったかに見えた。
先ほどの緊張感と言い表せぬ空気は、すっかりなかったことになったかのように、文太一人が店に取り残された。
濡れた店の中。濡らしてもいいようなものしか濡れなかった。日めくりカレンダーが少し濡れたのが気に入らなかった。
何だってンだよ、一体……。文太はため息をつき、タバコを取り出し火をつけた。ふ、とひと吸いした。
涼介の理屈は文太にはやはりわからなかった。
理想にしていた父親像があり、それに自分が合致したというのか。
ばかばかしい。世の中の一体どれほどの人間が、理想の父を得ていると言うのだろう。知らないなら教えろだと。文太の中身を涼介に教えなければいけない理由など、無いはずだ。

――譲れないもの、諦めきれないもの、か。

転がった空のバケツを拾い上げながら、文太はふと考えた。
涼介が涙ながらに言った言葉の意味だ。
涼介はそれが自分だと言った。ばかばかしい、訳がわからない。文太は舌打ちした。
なら、自分は……? 


それは豆腐屋の仕事であり、車だ。


責任感と意地と矜持と、捨てきれない夢の欠片。


濡れたまま、涼介はさっき登ってきた緩やかな坂道をとぼとぼと下っていた。
幼馴染と、その愛車のロードスターが、坂の下で待っていた。
涼介、乗れよ。
優しい史浩は、何も言わずにびしょ濡れの涼介を迎え、ナビに乗るように言った。
でも、オレ、こんなに濡れているから。涼介が断ると、史浩はフェイスタオルを二枚ほど差し出した。雨用にって乗せてるやつだよ。タオル、これじゃ足りないかな。ああ、座席なら濡れたってかまわないよ。さ、早く乗れよ、涼介。
史浩は優しかった。涼介はきまり悪そうに頷き、ありがとうな、史浩、と礼を言った。
いいんだよ。さ、早く帰って風呂に入らないと風邪引くよな。
幼馴染の愛車のシートを濡らす申し訳なさを感じながらも、涼介はその狭いナビに収まった。
ロードスターは走り出した。涼介が震えているのを見て、史浩はエアコンの温度を上げた。
随分大声だったな。下まで聞こえてきたぞ。史浩の言葉に、涼介は俯いた。
なぁ、涼介。お前が宝物みたいに大事にしていたあの小さいノートな。あれの通りになんか。ならないんだよ。
史浩の言葉に、涼介ははっとして濡れた顔を上げた。
幼馴染は、二枚目ではないけれど優しい顔で、申し訳なさそうに謝った。ごめんな、涼介、お前があんまり夢中になって書いてたから、お前がトイレに行ってる時に一度見ちゃったんだよ、だいぶ前にさ。
あれに書いてあったの、まるで藤原のオヤジさんのことみたいだよな。
ビックリしたよ、オレも。んでお前、なんて言ったんだ? 藤原のオヤジさんに。
……お父さんに……してくださいって、言ったんだ。
断られたんだろ?
……うん。
涼介が頷くと、だろうな、と史浩は小さく笑った。
なぁ、涼介……違うんだよ。理想と現実は。お前が幾ら、強く願ったってさ。
史浩の言葉に、涼介はまた泣いた。





それから暫く、文太には平凡な日が続いた。
あの嵐のような涼介のことは、まるで幻だったかのように平凡な日々だった。
しかしそれが現実だった証拠に、デニムに入っていたラブホテルの無料券があった。捨てても良かったがなぜか捨てられず、タンスの奥につっこんだ。
朝早く起きて豆腐を作り、拓海に運ばせ、戻ってきたら一緒に朝飯を食べる。拓海は卒業までは学校に通うかバイトかで過ごしていて、ほとんど家にはいない。
文太は午前中、一人であちこちに配達をする。軽い昼食をとったりとらなかったりで、昼前から夕方まではハチロクをいじるか店番をするかで過ごし、合間に昼寝をする。
夜には拓海が帰ってきて一緒に晩飯を食べる。たいていは店の残り物で、それが並ばなかった日の方が少ないくらいだ。
テレビを見ながら晩酌をして、うとうと寝てしまうか、飲みに出かけるか。
そんな、何の変哲もない日は、一週間ほど続いた。

このまま続いてくれるかと思った、矢先のことだった。
拓海が浮かない顔をしてバイトから帰ってきたのは、次の水曜日の夕食時。
いつもなら飲みに行くあの店が改装だとかで臨時休業で、文太は家に居た。
どうしたんだよ。売れ残りのおからを小鉢に移しながら文太が訊くと、拓海はまたおからかぁ、と眉をしかめた。
あのさ、涼介さんが倒れたみたいでさ、と拓海は文太の隣に座った。
涼介の名が出て、文太は箸を止めた。
あの背の高い兄ちゃんの方か、と文太が言う。そう。金髪じゃない方。遠征はまだだけど、プレ……っていうのかな、妙義のチームとやるんだ。非公式戦だけど、プロジェクトDとして、初遠征の前に一戦。
妙義のチームが交流と、遠征の予行演習につきあってくれるんだ。なのに涼介さん倒れちゃって、飯も喰えないくらい具合悪いみたいでさ。セッティングとか何にも決まらなくて、史浩さん頭抱えてるんだよ。
ああどうなっちまうんだろ、と拓海はため息をつき畳に寝転がった。
史浩という名に、文太はぴんと来た。あの時のポロシャツの男だ。拓海の話だと、涼介の幼なじみ、外報部長という肩書きで、早い話が体のいい雑用だ。
へぇ、そりゃ大変だな、と文太は他人事のようにお決まりの台詞を述べるにとどまった。
なんだよオヤジ、他人事みたいに。
だって他人事だろうが。他人事、と言う部分を、文太は強く言った。




夕食を終え、風呂に入り、四畳半の自分の部屋で横になって。薄汚れた天井を見上げながら文太はぼんやりと考え事をしていた。
向かいの拓海の部屋から、テレビゲームの音がする。
考えていたのは、涼介のことだ。
倒れた、と訊いた時、心臓が跳ねた。お父さん、と呼ぶ声が耳元で再生された。
もう関わりあいたくないと思っているはずなのに、会うのは二度とゴメンだと思っているはずなのに。
涼介さんが倒れたという言葉が頭の中でぐるぐると廻る。
あの整いすぎたくらい整った顔と、低い声が思い出されて仕方なかった。
何故だかむしょうに涼介のことが気になった。


一つくらいは譲れないものが、諦めきれないものが、誰だって、あるでしょう? オレにとってはそれが、あなただったんです!

例え、あなたのことをほとんど知らなくたって、オレにはあなたが一番なんです! 知らないならあなたのことをオレに教えてください!!

あの日、涼介が泣きながら言った言葉。
その意味は、分かりたくもない。知りたくもない。

倒れようが、どうなろうが自業自得だ。知ったことではない。
あいつのことなんか知るかよ……一人ごちて、寝返りを打った。
もう関わりあいたくない。会うのは二度とゴメンだと思っている――筈だった。






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