つじぎみ・むすこ(交錯編)



ナビシートに置いた洋菓子店のシールを貼った小箱を気にしながら、史浩が操るロードスターが滑り込んだのは勝手を知った親友の家のガレージ。
富裕な親友宅のガレージは、一般的な家のそれより遙かに広かった。
数日前から火を入れられていない、白いFCの隣にロードスターを停めた史浩はインターホンを押し、出迎えてくれた家政婦の後について高橋邸に入った。



「良くもなっていなければ、悪くもなっていないか」
涼介が倒れたのは数日前で、医師である彼の両親の診察結果は極度の疲労。
大学も車も休みの形を取り、自宅で療養を続けていた。
家政婦の目が届くという理由で、二階の自室ではなく一階ガレージ脇のゲストルームに寝かされていた。
「ああ、変わりはないよ」
見舞いにきた史浩に、ベッドで上体を起こした涼介が小さく笑みを作り、見舞いの礼を言った。
元々細身で色も白かったのが、ここ数日で頬がげっそりと落ち、色の白さは病的なものになっていた。
シンプルなゲストルームはベッドとテレビの他は数台の加湿器が白い水蒸気をあげているだけで、大きな窓からは家政婦が丹精している庭の花がよく見えた。
倒れて以来、涼介は食事を受け付けなくなっていた。
腕には細いチューブが通され、点滴で栄養をとっていた。
「家で点滴って、お前んちらしいな」
史浩は点滴のパックをつついた。
クリニックから持ってきたらしい点滴スタンドに吊された輸液パックには乱雑な字で、開始時間と終了予定の時間が書かれていた。
「ずっと、これか?」
「昼間はな」
これ、とは点滴のことだ。涼介は「メシが食えないんだから仕方ないさ」と苦笑した。
「点滴はいいんだけど、うちのオヤジは針刺すのが下手なんだ。痛くてさ……」
「だったら、メシ食えよ。買ってきたんだぜ、お前が好きな奴」
先ほどまでロードスターのナビシートにあった小箱は枕元に置かれた。
中身は、涼介が好きな焼きプリン。甘党の涼介が特に贔屓にしているものだ。
「……ありがとう。でも、……今はそんな気になれないんだ」
涼介がうつむくと、湿った前髪が目にかかって物憂げに彼を彩った。
「そうか……まぁ、気が向いたら食えよ」
涼介が倒れた理由は、本人以外では史浩だけが知っていた。
「妙義のプレ戦は、ギャラリーも入れないからセッティングは松本と宮口メインで啓介と藤原に任せる。いいな?」
「……ああ」
妙義ナイトキッズとの、初遠征前の非公式戦がすぐそこまで迫っていた。
涼介が作戦やセッティングを考える筈だったが、今の状態ではそれは出来ない。
ならばと史浩が考えたのは、この先一年、コンビを組むメカニックとドライバーに意見を出させあい、メカニック主導でセッティングを行う方法だ。幸い、啓介も拓海も妙義でのバトル経験がある。コースも北関東地区では比較的緩やかな方だ。無理な話ではないだろう。
「な、涼介」
ベッドに腰を下ろし、史浩は涼介を見た。
「……あの日も言ったけどさ。いつまでも夢見るの、やめないか?」
小さな子供を諭すような口調で、涼介の目を見て言った。
「夢?」
「ああ。お前の、……譲れないものだとか……諦めきれないものだとか……一番だとか……」
あの日、坂の下で涼介を待っていた史浩には、言い争う二人の声が良く聞こえた。
涙ながらに、涼介が言った言葉。
譲れないものが、諦めきれないものが、文太だと――涼介にはたった一度会っただけの文太が一番なのだと。



「……お前がずっと会いたかった人だっていうのは分かるよ。でもな、……あっちにしてみればいきなりの話だ。
たとえばオレがあの人だったとしたって、急に一度会っただけの男に息子にして下さいなんていわれて、はいそうですかって受け入れられる話じゃないさ」
前あきのパジャマの襟元から、痩せた涼介の鎖骨が見えた。一昨日来たときより、また体重が減ったんだな、と思った。
点滴の輸液パックの種類は、一昨日とは違っていた。栄養が足りていないのだろう。



史浩の話は、きわめて一般的な「常識」だった。
「世の中の一体どれほどの人間が、理想の父親のもとに生まれてるって言うんだ? お前の親父さん、いい人じゃないか。こんな裕福な暮らしもして、車も買ってもらって……何が不満なんだよ。お前の我侭だろ? それに……」
「イヤだ」
キッとした声が、史浩の演説を遮った。
「……オヤジには悪いとは思うよ。でもオレは、……あの人がいいんだ」
長いまつげの瞼を伏せると、文太の姿が涼介の脳裏に浮かんだ。
目の細い、痩身の、タバコをくわえる姿のよく似合う人だった。
ずっと理想にしていた、夢にまで見た、そのままの形の人がいた。
あの人はきっと、自分が長い間追い求めていた理想のお父さんだ。何かの理由で生まれてくるところがあの人の元でなかっただけで、自分はあの人の”息子”だ。
今はなにも知らなくても、お互いのことを知り合えば必ずうまくいく……あの人に息子だと認めてもらえる。
涼介はそう確信していた。
怒鳴られ、水を掛けられ、拒まれても、文太を諦めてはいなかった――ただ、そうされたショックでのこの有様なのだ。



あの夜、あの誘い方で、涼介は文太に受け入れられると思っていたのだ。
それはとても子供じみた浅薄な考えだった。

(……悪いだなんて、思ってもないことを……)
史浩はちら、と目を逸らした。


あの時、長年つきあいのある涼介の泣き顔を、怒鳴る声を、取り乱す様を初めて見た。
それは、文太が涼介にとってどれほどの存在であるかを理解するには十分なものだった。
視線を戻すと、涼介はぎゅっと唇をかみしめ、うつむいていた。青白い頬が震えていた。
(……重症だな)
親友のそんな姿に、史浩は悲しそうに少しだけ笑み、「じゃあこれは冷蔵庫に入れておくよ」と小箱を手に腰を上げた。


涼介が倒れたというニュースは人の口に戸をたてることを知らない走り屋の口から口へ、峠を駆け巡った。
大学と、県外遠征プロジェクトの準備に忙殺されて疲労がピークに達した、というのが一応の「倒れた理由」だ。
本当のところは、一週間前の水曜の夜の出来事。
ずっと出会うことを願っていた「お父さん」に拒まれた、そのショックだ。
涼介が倒れたことを心配する輩は沢山いた。史浩のところには涼介の病状を心配する電話が、レッドサンズのメンバーやらオフィシャルを頼んでいる常連のギャラリーから、次々に掛かってきていた。
その一方、ここぞとばかりに打倒レッドサンズとバトルを申し込んでくるチームもあり、涼介抜きで県外遠征チームの準備とレッドサンズの運営を行う史浩には胃が痛い日々だった。



家政婦は二階の掃除をしているらしく、上から足音と掃除機の音がする。
無人の広いキッチンの、普通の家のものより大きな冷蔵庫のドアを開けると、史浩はふっと笑った。
そこには自分と同じ考えをしていた人間からの、同じ白い小箱がスペースの大部分を占領していた。
試しに二つ三つの箱を開けてみると、予想通り史浩が買ってきたのと同じ、涼介の好きな焼きプリンが入っていた。
沢山の人間が、倒れた涼介のことを心配して見舞ってくれたのだ。なのに。
(大勢の心配より、たった一人に振り向いてもらうことを選ぶか……涼介)
そんなことが分からない涼介ではないはずだった。
頭が良く何でも知っていて、一を聞けば十を解する。先の先を読み、冷静沈着。それが涼介だったはずだ。なのに、文太のことだけはどうだろう。
(まるで子供の考えじゃないか……)
史浩の持ってきた小箱が、一番手前に新入りの顔で仲間入りした。


一週間前の、ほんの一時間足らずの出来事は、文太の心に涼介を深く刻み付ける結果となった。
たった一度会っただけなのに、自分の息子になりたい、性的な関係を持ちたいと願い出てきた男の存在。
青天の霹靂とは言い過ぎかもしれないが、忘れたくてもなかなか忘れられるものではない。
美貌にも家柄にも才能にも、人が羨むくらいなにもかもに恵まれている癖に、どうして自分のような、たかが寂れた豆腐屋の息子になりたいなどと思うのか。
あれは本気だった。からかいや冗談の目ではなかった。
年を取ると、それくらいはすぐに分かる。からかいなら僅かでも見える「隙」が全くなかった。涼介は本気だった……。
それに――涼介が文太に泣きながら言った台詞――涼介にとって譲れないものが、諦めきれないものが文太だと――。



一昨日の夜、文太は拓海から、涼介が倒れたと聞いた。
大事な時期だろうに、しかも医者の卵が。病人ごっこをして、まさか自分への当てつけのつもりだろうか。
(……頭ン中がごっちゃになるな……)
昼下がりの店の中、水槽に静かに沈む白い豆腐の群れを眺める文太はため息をついた。
考えれば考えるほど、訳が分からない。
冷たい水槽の縁に手をついて豆腐の群れを目で数えていると、居間の電話が鳴った。
すわ注文かと、慌てて受話器を取ると、『もしもし、オヤジ?』と、やる気の無い聞きなれた声……本物の息子の拓海からだった。
「なんだ拓海か……」
『なんだはねぇだろ、用事があって掛けてんだから』
「バイト中じゃねえのか」
『休憩中』
拓海は朝からバイトに出ていた。居間の上がり口に腰掛けると、文太は「用事ってのはなんだ、とっとと言え」と面倒臭そうに促した。
『あのさ、今日プロジェクトDの人が二人、そっちに行くから。ハチロク担当のメカニックの松本さんて人と、外報部長の史浩さんて人』
史浩という名は、一昨日拓海から聞いた。あの日文太を呼び出した男だ。
ハチロク担当のメカニックと拓海はさらりと言うが、一台に一人専任とは、たかが走り屋が偉そうな構えだ。チーム全員がよってたかってああでもない、こうでもないといじり回すのが本来の構えだろう。
『ハチロク、中見させて欲しいって。言っただろ、妙義のプレ戦があるって。それと、今後の遠征のこととか……史浩さんから話があると思うんだ』
「……あの背の高い兄ちゃんが倒れたから、色々決まらないって言ってなかったか?」
一昨日、拓海は涼介が倒れて、差し迫ったことさえ決まらないと零していた。
『そうなんだけど、妙義とのプレ戦はあくまで非公式だから。ギャラリーも入れないみたいだから、オレとメカニックの松本さんに一任されちゃった感じ。妙義の下りは一度雨の日に走ったからわかるしさ。
遠征のことは、倒れる前に決めてたところまでのことをとりあえず。日にちとか……』
「そうか、ならいい」
『頼むよ、オレ今日は遅くなるから。帰りにイツキんちに寄るしさ』
「ああ。配達までには帰ってこい」
じゃあ、と拓海が電話を切ったのと、店の入り口からごめんください、とセールスマンのような男の声がしたのはほぼ同時だった。
「すみません、プロジェクトDですが……」
聞いたことのある声だった。
文太は受話器を置き、店の入り口へと視線を滑らせた。
人の良さそうな顔をした、先週確かに見たことのある男と、ツナギを着た背の高い男が並んで立っていた。
史浩は先週のことなどなかったかのように「はじめまして」と挨拶をし、自分と松本との自己紹介をした。
白々しい。文太は呆れたが、本当に初対面の松本の前でそれを顔に出すような愚かさはない。
「こちらこそ」と同じように初対面を装って頭を下げ、拓海が世話になりますとマニュアル通りの口上を述べた。
ハチロクは駐車場でボンネットを開けられた。松本が持参した工具が狭い駐車場に広げられ、カチャカチャと金属音が忙しない。暫く文太は作業する松本を見ていたが、手際は良く、腕は確かなようだ。
松本は父親の経営するショップで働いているという。聞けば有名な走り屋御用達の店で、なるほど頷けた。
「……それで、こちらが現在決定している遠征の日程になります。とりあえず近辺からなので、プラクティスやバトルが終わっても朝の配達には間に合うように戻ってこられる筈ですが、戻れない時は松本の……メカニックの店から代車を手配させます。車種のご要望があれば、お聞きしますが」
ハチロクの傍で、文太は史浩から説明を受けていた。
「別にそのくらいは自分で手配するぜ」
至れり尽くせりすぎな待遇に、文太は苦笑した。
史浩はプロジェクトDの外報部長という肩書きで、普段は臨時の小学校教員をしているという。
説明上手なのは人にモノを教える職業だからだろうか。
ハチロクの整備の音を聞きながら、史浩に渡された遠征の予定表を見た。史浩がパソコンで作った表には、出発時間や終了時間、地図には拠点とコースがマーカーで記され、ギャラリーポイントも細かに色分けされ、オフィシャル人員のメンバー表まである。
「オレたちの若い頃とは全然違うな」文太は苦笑した。
「オレが若い時分は、誰かの親に借りたボロのバンに全部積み込んで、見習いの整備士のツレを無理矢理連れ出して、地図を上に下にひっくり返してあっちだ、こっちだと迷いながら遠征したもんだ」
もう二十年以上も昔の話だがな、と昔話に付け加えた。
「うちのオヤジも同じことを言ってましたよ」
ウエスを手にした松本が、聞こえてきた話に割って入った。文太は振り返った。
「藤原さんのことも、うちのオヤジ知ってましたよ。なんでもプロのラリーストだったそうですね……」
悪気のないその言葉に、文太の古傷が抉られる。
「……短い、間だったがな……」
あやふやに、誤魔化すようにかわした。文太の表情で、あまり聞かれたくはない過去だと悟った史浩が、話題を変えた。
「……御主人、代車なんですが」
「ああ」
「費用も全てこちらで持ちます。涼介が、そう話したかと思いますが……」
涼介の名が出た瞬間、文太と史浩の間の空気が違ったものになった。
「……そうだったかな……」
呟いた文太の声色が変わったのを、史浩は聞き逃さなかった。
「では代車の件は、松本の店の電話番号をお教えしますので、その時にまた適宜と言うことで。ハチロクとはいかないかもしれませんが、トヨタ車なら大概は手配できます。ところで、すみませんがお豆腐を幾つか売ってくださいませんか。ウチの母親が豆腐好きなので……」
それがこの場を離れる誘いだと気付いた文太は、「ああ、どうぞ。色々あるぜ」と先に立って店に入った。史浩も続いた。



薄暗い店の中は、早春の冷えた空気に豆腐と油の匂いが混ざり合っていた。
文太はちら、と壁に目をやった。日めくりが少し濡れて乾き、波打っていた。
あの日、涼介に掛けた水のとばっちりを喰らった日めくりだ。
「……倒れたんだって?」
史浩が店に入り、戸を閉めた途端文太が切り出した。
「はい」
主語はなかったが、史浩は頷いた。
人の良さそうな顔に困惑の笑みを浮かべ、史浩は「寝込んでますよ、アイツ」と頭を掻いた。
「当て付けか。それともオレが水を掛けたせいか」
多少の嫌みを込めて訊いた。史浩はふ、と笑った。
「どっちでもありませんよ。濡れて帰ったくらいで風邪を引くような弱い体はしてませんし、当てつけをするような女々しいやつじゃありません。ただ、体調を崩して寝込んでるのは本当です。メシが食えないらしいんです。自宅で点滴ですよ。昨日会いにいったんですが、随分痩せてました」
濡れて帰った、という部分に文太が引っ掛かりを覚えた。
(アイツは一人で帰ったんじゃねえのか?)
「あの日、アイツ御主人に随分無茶を言ったようで……オレ、坂の下で自分の車で待ってたんです。すごい声でしたね。荒物屋さんのところにまで聞こえてきましたよ……」
史浩はショーケースの中に整然と並ぶ厚揚げや薄揚げに目をくれた。
文太はああ、と納得した。
あの次の日、近所の商店主たちが「昨夜何処かの家が大喧嘩をしていたらしい」と話していた。よほどの声だったのだろう。
後で喉が痛かったから、随分声を張り上げたのだ。夢中で気付かなかったが。
幸い、その声の元が藤原の家だとはばれなかったようで、大方酔っ払いの観光客だろうということで話はついたのだが。
「アイツ……泣いてましたね」
「そうだな」
文太は居間の上がり口に腰を下ろし、胸ポケットから煙草を取り出して咥えた。
「御主人、オレ、知ってるんです」
「何を」
「アイツがあなたに何を言ったのかとか……」
「…………」
文太はライターを探ろうとポケットに手を突っ込んだまま、史浩を憮然として見た。
「理想のお父さんだとか……譲れないものだとか……お父さんにして欲しいとか……」
全部知っています、と史浩は告白した。
「涼介……随分前から、夢中になって、手帳に何か書いてたんです。授業中だったり、峠だったり、飯食ってる特だったり。それがちょっと違う雰囲気だったんで、なにかなって思って、悪い気はしたんですが……アイツがいない隙に、ちょっと見ちゃいまして」
去年のことだったか、と史浩は回想した。
以前から気になっていた。涼介が夢中になって何かを書き込んでいるのを。
そしてそれを見ては、今まで見たことの無いほど満ち足りた顔をしているのを。
あれに何が書いてあるのかが史浩には気になって仕方なかったが、隙のない涼介のこと、それを誰でもが見られる場所に置くような愚はなかなか犯さない。
半年ほど狙って、やっと機会が訪れた。峠で、涼介がトイレに行った隙だ。
何時もならFCのダッシュボードにでも入れるそれを、よほど急いでいたのか、ベンチに置いたノートパソコンの下に敷いていた。
「……自分の理想の、お父さんについてでした」
「…………」
「普段は無口で無愛想で頑固。欲が無いのか世渡りが上手くないのか、お金はそんなに無い……車には造詣が深くて、運転だって勿論上手いし自分で弄るのも得意だとか……そんなことを、書いては直し、書いては直してつらつらと」

工具箱を開く音がする。

それは、涼介が文太に言った言葉と同じだった。
――あの日、お父さんに会う前に、藤原……拓海君に、あなたのことを聞いて、あなたがオレの理想の人だと確信したんです
――普段は頑固で無口で、お金はそんなになくて、でも車には造詣が深くてもちろん走るのも早くて、優しくて……



店の外から、キン、と甲高い金属音がした。落としたレンチがコンクリートを叩いた音だ。
「まるであなたの事みたいですね、藤原さん」
「兄ちゃん、アンタ……」
アイツと同じことを言うのか、と……文太はため息をついた。
「アイツの親父さんは医者で……まぁ、普通にアイツを可愛がってます。傍から見れば普通の父親と息子ですよ。虐待されているわけでもないです。家庭的には、お袋さんが隠れて男を作ってたり、医者の家系ですから、医者にならないといけない空気だったりはありますけど、教育熱心ですし見識は高いですし。金銭的にはあの通り、とても恵まれています。ただ……」
「ただ?」
史浩の言葉に、文太は細い目を更に細めた。優しい史浩の顔は、全ての答えを知っているもののそれだった。
「アイツには、あの父親では駄目なんですよ」
「何だそりゃ……」
「アイツ、あなたの前で泣いたでしょう」
「ああ。それがどうかしたのか」
「オレはアイツともう随分長い付き合いです。物心ついたときからです。走り始めたのも同じ時期で、ずっと一緒で……色々、知ってます」
史浩は店のドアにもたれかかり、記憶を辿った。
「峠で走り始めた頃、チームにも属さないのに涼介は無茶苦茶速かったんですよ。免許取り立ての大学一年がですよ。それで、生意気だってあるチームに締められたんです。待ち伏せされて袋叩きになって……奥歯と、あばらの骨を折るような大怪我をして、FCも滅茶苦茶にされて……あのFC、実は二代目なんですよ。
啓介……アイツの弟がぐれて家の中が大変になったりもしましたね。ここに来たでしょう? あの金髪の弟ですよ。今は更生しましたがね。随分やんちゃをして、あちこちにアイツが頭を下げに廻ってましたよ。
あとは……そうですね……涼介はあの通りの見た目で勉強もできるから、高校の時にクラス中に無視されて酷い苛めにあっていたこともありました」
「それで? ……そんなのは、大なり小なり誰にだってあるだろう? 持って回ったいい方はじれったいな、先生」



涼介の過去を話して、同情を引こうというのだろうか。



文太はイライラした。話の核心が見えるようで見えてこない。
史浩は、その部分をどう表現するかを、喋りながら考えているようだった。
そして一つの答えを見つけた。
「アイツは、泣いたことがないんです」
「…………」
「どんな酷いことをされても、大変な目に遭っても、アイツは絶対泣かないんです。弱音もはかないんです。我慢強いとかそういうレベルじゃなくて……」
前髪をかき上げた史浩の顔に、寂しさが浮かんだ。
ぐしゃぐしゃになったFCのそばで、暴行を受けボロ雑巾の様になっていた親友の姿が。
荒れた啓介が暴れて家の中を滅茶苦茶にして、割れたガラスを無言で片付けていた親友の横顔が。
苛めに遭って靴を隠され、裸足のまま、泣きもせず帰路に着く親友の後ろ姿が――史浩の脳裏に思い起こされた。
「思い切り笑ったところも、取り乱したところも見たことがありません。……弟の啓介にも聞いてみてください。多分、オレと同じことを言いますよ」
涼介が思い切り笑ったり、泣いたり取り乱したりするところを見たことがないってね、と史浩は目を伏せた。
あの自信たっぷりの姿はかりそめの高橋啓介だ。
思い切り笑ったり、泣いたり、取り乱したりしないその裏返しなのだ――史浩はそう思っていた。
「どうしてだと思いますか?」
「知らねぇな」
「御主人」
「知らねえっつってんだろ!」
思わず声を荒げ、文太は立ち上がった。



「……泣いたり笑ったり、取り乱したりする”素の涼介”を、受け止める場所や存在が無いからですよ」



バン、とハチロクのボンネットを閉じる音がした。
「アイツにとって、あなたがその場所だと思ったんでしょう」
工具を片付ける音がそれに続いた。



「兄ちゃん、」
「オレがその存在になれないかと思ったこともありました。でも、駄目なんですよ」
史浩が差し伸べた手を、涼介が取ることはなかった。
自分で探していたのだ。その存在を。そして、見つけた――文太を。
「泣いたり取り乱したりした涼介を見たのは、あの夜が初めてでした」
「お前さんな、」
文太が一歩踏み出した。勝手な屁理屈を並べ立てる史浩に、蹴りの一つでもくれてやるかと思った。
「でもね、御主人。オレは、アイツの意見に賛同しているわけじゃありません。
理想と現実は違うって、オレはアイツに言いました。今でもその持論は崩しません。
アイツはあなたが理想だといいますけど、アイツと藤原さんが、アイツの望むとおりの関係になんてなれないと思っています。涼介の我侭だと思ってます。
アイツの言い分は全部、子供の我侭ですよ。いろいろあったけど、トータルで見ればアイツは恵まれてます。アイツはそれに気付いていないんです。最初から終わりが見えている走りなんて、珍しいことじゃありません。オレだって教師になりたいから、走りはセーブしてますし、家業を継ぐから峠を去った話は珍しくありません。でも……」
「てめぇいい加減に……」
文太が低い声で唸った。
史浩はたじろぎもせず、文太を見据え持論を展開していた。



「アイツがあんなに、子供みたいになるのはあなたのことだけです。藤原さん」



「あの……」
史浩の後ろ、店のドアが開いて松本が顔を覗かせた。
「史浩さん?」 松本の声に、文太と史浩が振り返った。
「終わりました」
頭を下げる、朴訥そうなメカニックが、その場の緊張感を砕いた。
「……じゃあ、これで失礼します。松本、車回してきてくれ」
「はい」
史浩が自分のポケットからマツダのマークの入ったキーを出し、松本に渡した。
松本は失礼します、と頭を軽く下げてドアを閉め、坂の下に向かって歩いていった。
「……アイツは、恵まれてはいますけれど、あなたや周りが思うほど、何も持ってはいないんです」 含みのある言い方をし、史浩は尻ポケットから出した財布から小銭を何枚かつまんでショーケースの上に置き、隣にあった卯の花炒りのパックを取った。
「もう一度、アイツに会ってやってくれませんか。アイツと、もっとちゃんと話してくれませんか。家は、高崎の××町の2の1です……」
失礼しました。史浩は言うと、頭を下げて卯の花入りのパックを手に、店を出た。
特徴あるエキゾーストが聞こえ、店の前に松本の運転するユーノスロードスターが停まった。史浩が松本に代わって運転席に収まり、ロードスターは切り替えして坂を下っていった。



「何か込み入った話をしていたんですか?」
ロードスターのナビシートで、膝の上に工具箱を一つ抱えた松本が、史浩に訊いた。
「まぁ、色々」
「なんか、頑固親父って感じの人ですね……」
「そうだな」
「怒鳴ってませんでした?」
「いや? 気のせいだろ?」
松本の疑問をはぐらかし、史浩は「ハチロクの中はどうだった?」と逆に尋ねた。
「ええ。あのオヤジさんが手入れをしているからでしょうね、いい状態ですよ。日常の手入れに怠りはないようです。さすが、元ラリーストっていうか……」
緩い坂道を下り終え、史浩はナビシートの松本を見た。
一週間前、松本が座っていた場所には、びしょ濡れで泣いていた涼介が座っていた。
平静を装って、泣きじゃくる涼介を宥めたが、史浩は涼介が泣いたことに驚いていた。
ずっと傍でいたから分かる。
どんなに酷い目に遭っても、史浩の差し伸べる手を跳ね除け決して涙を見せなかった涼介が、あの夜だけは涙を流した。
譲れない存在。
諦められない存在。
涼介が、きっとずっと探していたもの。
思い切り笑える場所、泣ける場所。
それはきっと、理想の父親――文太なのだ。
(オレがどうこう言ったって、涼介は納得しないからな……藤原のオヤジさんとちゃんと話し合ってもらうしかないだろうな)
自分の出来ることはやったつもりだ。
文太の知らない『涼介』を、文太に教えた。
それを文太がどう受け止めるかは文太次第だ。



涼介が追い求めていた『存在』に、文太がなるのか。
そんなものは手に入らないのだと涼介が諦めるのか。



「そういえば涼介さん、大丈夫ですかね?」
松本は仕事が忙しい上、働いているショップでインフルエンザが流行っていて、見舞いを遠慮していた。
「……たぶんな」
史浩は曖昧に答えた。もう一度、あの二人を引き合わせるより他はない。答えを出すのはあの二人だ。



「……なんだってんだ。どいつもこいつも!」
竈を腹立ち紛れに蹴ると、鈍い音がして足が痛んだ。
特大のため息をつき、文太は胸ポケットからやっとライターを取り出し火をつけた。
「あいつらグルじゃねえのか……」
面倒が折角沈静化したと思ったら、また掘り返された。
しかも、前よりもっと面倒なことになった。




「……ッ、」
二三度しか吸っていないタバコを排水溝に落とした。
じゅ、と火の消える音がした。



その数時間後の夕方、文太は苦虫を噛み潰したような顔で支度を始めた。
売れ残りの商品は珍しく少なかった。
刻み揚げ、豆乳、絹豆腐。
昼間、史浩達が来た後に団体客が来て、おばあちゃん連中が「お豆腐屋さんなんて今時懐かしい」といいながら競うように買い漁ってくれたおかげだ。
文太が縁あってこの店を継いだ頃はこのあたりにも豆腐屋はあちこちにあって味を競っていたが、今店を構えているのは文太のところと、駅前に最近出来た、こだわりを掲げる店くらいだ。
残っていたその三つをビニール袋に入れ、店を閉めるとハチロクのナビシートにそれを放り投げた。
涼介が何が好きか、文太は知らない。もしかしたら豆腐なんて嫌いかもしれない。
そうだ。何も知らない。あっちが自分のことを知らないように、文太も涼介のことなど、何も知らないのだ。
否、ついさっき、史浩に教えられた――少しだけ、教えられた。
こうして涼介のところへと行こうとしている。それは、確実に涼介を知ろうとする行為だ。
「……オレも大概、人が良すぎるな」
ガキのたわごとに付き合ってやっている自分に腹が立つが、性分は変えられない。
この豆腐屋のことからしてそうだ。友人の死に責任を感じて継いだ。おかげで女房に逃げられ、男やもめになる羽目になった。



夕暮れの高級住宅街は、豆腐屋の名前の入ったハチロクを走らせるのには不釣り合いな気がした。
どこも豪邸紹介に出てきそうな綺羅を張った家が立ち並び、高級車がガレージに鎮座している。
家を探しながらのろのろと徐行していたら、小さな犬を散歩させていた主婦らしき女性が声をかけてきて、「お豆腐売ってくださいます?」と言われた。
断ろうと思ったが、結局絹豆腐は彼女に120円と交換に渡った。豆腐の行商だと思われたらしい。
縁あって豆腐屋を譲り受けたはいいが売れない時期もあり、幼い拓海を後ろに乗せてあちこちの住宅街を廻ったこともあった。
経営は苦しいのにハチロクを買い、軽のバンでもいいのになんでハチロク、豆腐屋なんて辞めて、運転手をすればいいだろうと言われていた頃だ。しかし、どちらも拒んだ。
答えは一つしかない。走りを捨てきれなかったからだ。豆腐屋を続けるのは自分なりの贖罪だと思ったからだ。





翼状針を抜く瞬間の痛みに、涼介が顔をしかめた。
「野菜スープを好江さんが作ってくれているらしいぞ。少しでも、口にしたらどうだ?」
涼介の父は空になりへしゃげた点滴パックを片づけながら、ベッドに仰臥したままの息子に問いかけた。
ゲストルームの向かいにあるキッチンからは、いい匂いが漂ってくる。
「……はい」
力ない返事に、医者である彼は息子の病状が決して良くはなっていないことを悟る。目の前でため息をついたりはしないが、内心は穏やかではなかった。このままこの状態が続くようなら、入院も視野に入れなくてはいけないだろう。
「見舞いにも友達が沢山来てくれているじゃないか。冷蔵庫開けたら店が開けるくらいプリンがあってびっくりしたぞ。こんな時にはプリンはいいんだぞ。口当たりものどごしもいいし、卵に砂糖に牛乳に……栄養豊富だ」
冷蔵庫を占領する、見舞いの品の箱のことを言ったが、涼介はやはり「……はい」と力のない返事をするだけだ。
涼介の父はやれやれ、と僅かに肩をすくめた。
いつもきりっとして背筋を伸ばした、出来のいい長男は今、抜け殻の様になっている。
「じゃあ、私はクリニックに戻るぞ。好江さんも今日は早上がりだし、母さんも遅い。啓介には早く戻るようには言ってあるが……まぁ、当てにはならないな、あいつは」
何かあったらクリニックに連絡を、と父親は言い残し、ベッドの足下に置いてあった上着を取り部屋を出ていった。
「……行ってらっしゃい」
感情の篭らない見送りの言葉と視線を送り、涼介はぼんやりと天井を見上げていた。
枕の下に手を入れると、メモノートがある。
それを引き出して開くと、大好きなお父さんについて書いてある。
涼介の宝物だ。


(こんな時、『お父さん』なら……)
涼介の理想のお父さんなら、仕方ないな、と言いながら、手料理を作ってくれるだろう。
そしてそれを、涼介に食べさせてくれるだろう。



(お父さん、) 心の中で文太を思い浮かべ、涼介は目を閉じた。
一日仰臥していると、昼も夜もなくなる。
浅くまどろんでいたら、インターホンが鳴って涼介は目を覚ました。
家政婦が『はい、只今』と玄関に急ぐ声が聞こえる。やがて足音がこちらに向かってきて、ドアがノックされた。
「……あの、涼介さん」
僅かにあけたドアからひっつめ髪の家政婦が顔を覗かせた。
コートを着ている。今日は早上がりだと言っていた。もう帰るところだったのだろう。
「涼介さんにお客様なんですが……藤原さんという方で」
「……藤原?」
藤原さんという家政婦の言葉に、涼介は顔を向けた。
拓海なら、昨日啓介に連れられて短い時間だが見舞いに来てくれ、涼介のことを色々心配してくれた。
「また来てくれたのか、藤原が……」
涼介は苦笑しながら上体をゆっくりと起こした。家政婦が慌てて駆け寄ってそれを助けた。
「いえ、それが……」
家政婦は少し困っているようだった。



「藤原さんの、お父様と名乗る方なんですが……」



「……!」
その名に、涼介の心臓がドクンと大きく跳ねた。






後編再会編