つじぎみ・むすこ(再会編)
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随分と広い玄関だ。たたきの面積だけでも文太の店より広いだろう。
吹き抜けの玄関ホールには豪奢なシャンデリアがぶら下がり、横を向けば子供の二人くらいは入れそうな高価そうな壷、その上の額縁には油絵。
廊下の飾り台には、百合や洋蘭が何種類も大きな花瓶に生けられている。それも造花ではなく生花だ。
絵に描いたような金持ちの家。
金はあるところにはあるのだと思い知らされ、文太はため息をついた。
(何でオレぁこんなとこにいるんだ……)
文太に応対してくれた家政婦は、涼介を呼びに行ったまま帰ってこない。
そんなに広い家なのか、たっぷり5分は待たされている。
自分で思い立って、ここまでハチロクを走らせて来た文太だが、いざ涼介と相対するとなると、途端に帰りたくなった。
明らかに自分は場違いだと思った。
こんな、刻み揚げと豆乳のたかが300円足らずを手土産に来る場所ではない気がした。
(……来ねぇんなら帰っちまおうか……)
そんなことを考えていると、奥から話し声が聞こえ、やっと扉が開いた。
さっき応対してくれた家政婦に付き添われ、ストライプのパジャマにニットのカーディガンを羽織った涼介が現れた。
「……こんにち、は……」
涼介は玄関の上がり口まで来ると、悪いことをして見つかった子供のように、うつむいたままで挨拶した。
「ああ……」
文太は軽く返事をした。
涼介の声にも見た目にも力はなかった。
あの日、拓海につれられて弟とともに来た日のような、自信に満ちあふれている涼介ではなかった。
「お久しぶりです……」
「……久しぶりだな」
当たり障りのない挨拶を交わしながら、痩せたな、と文太は思った。
削げた頬と病的な青白い顔。肌はかさついているし、黒髪が湿っている。
この家に似つかわしく、カーディガンやパジャマもいいものを着ているが、その中で涼介の体が泳いでいるように見えた。
飯が食えなくて、という史浩の言葉はどうやら嘘ではないようだ。
「お店お忙しいんじゃ……」
「いや。別に」
二人とも、互いを見ないで言葉を交わした。
文太は玄関のたたきの隅の、上等そうな革靴と、その隣の踵を踏んだ派手なスニーカーを見た。きっと革靴が涼介のもので、スニーカーが啓介のものだろう。
「そうですか……」
「……」
(お父さん……)
涼介はちら、と文太を見た。
自分から視線を逸らす文太が、涼介にはとても素敵に見えた。
あの日以来会いたくて仕方がなかった。もう会えないと思っていた。
涼介の心臓が、早鐘を打つ。
会話は続かなかった。
涼介のそうですか、の後は何もなく、二人はそのまま段違いで向かい合い、互いを見なかった。
涼介に付き添っている家政婦は涼介と文太を交互に見、どうしたものかと探っているようだ。
「あー……、」
文太が何と切り出していいかを考えあぐねていると、涼介が家政婦の肩を叩いた。
「好江さん、もう上がっていいですよ、ありがとう」
「でも、涼介さん。お客様が……」
「オレがするよ。コーヒーくらいなら入れられるから」
「お身体が……」
「点滴の種類を変えたからだいぶよくなったんだ。ありがとう」
「はぁ……」
家政婦の顔は何か言いたげだった。
が、涼介は家政婦に帰宅を促した。
「好江さんも早く帰らないと。お義母さんのデイは5時まででしょう?」
「あ、ええ……」
「帰ってきたときに好江さんがいないとお義母さん困るんじゃないですか?」
「……そうですけど……じゃあ、私帰ります……涼介さん、スープこしらえてありますから、必ず飲んでくださいね?」
「ああ、わかってるよ」
姑がデイサービスから帰る時間を言われれば帰らざるを得なかったのか、家政婦は帰宅を決意した。
いささか納得のいかない様子ではあったが、雇い主と姑の帰宅時間には逆らえないらしく、彼女は二人に頭を下げ、さっき涼介がきた扉から去っていった。
裏口の戸を開け閉めする音と、軽自動車のエンジン音がして彼女がこの家を去ったことを告げた。
「……どうぞ、」
涼介がスリッパを勧めた。上がり口には揃いのスリッパが軽く10足はあった。
文太は軽く頷いた。
「食ってんのか」
片足をスリッパに突っ掛け、文太がいきなり訊ねた。
「え、」
「メシ」
「……え、あ……」
文太に何か質問をされるとは思ってもいなかった涼介は、返答に詰まった。
「お前、メシはちゃんと食ってんのかって聞いてんだ」
言い直しを強いられ、文太が面倒くさそうに問い直す。
涼介は少し迷い、首を横に振った。
文太は「だろうな、」と小さく笑った。
「それは……オレに対する当てつけか?」
冷淡な文太の口調は、怒っているようだった。
涼介は再び首を横に振った。
「本当に食えねぇのか?」
「はい……」
こくんと首を縦に振った涼介の肘の内側が、僅かに濡れてにじんでいるのに気づいた。
パジャマ越しに、点滴の跡らしいガーゼとテープが見える。
「点滴か?」
「……はい」
「家でか?」
「ええ……親が医者なので……」
「ああ。なるほどな。……そんなんで足りるのか?」
問いかけるのは文太ばかりだ。
「いえ……足りません」
また、首を横に振った。
二十代の男が、たかがあれだけの点滴で足りるはずはない。
だからこんなに痩せてしまったのだ。
それが証拠に、今のたったこれだけの時間でさえ、涼介には立っているのが辛く感じられる。頭がくらくらするし、首の後ろがずしんと重たい。今すぐにでも座りたいくらいだ。
「じゃあよ、」
文太は涼介の目の前に、手にしていたビニール袋を掲げた。
「オレが何か作ったら、食うか?」
ビニール袋には、豆乳の入ったプラスチックの小さなボトルと刻み揚げが入っていた。
「え、」
涼介は驚いた。
「油揚げと豆乳……嫌いか?」
「いえ……食べ物の好き嫌いは……特にないです。何でも、食べます……けど、あの……」
「ウチの油揚げとウチの豆乳だ」
「はぁ……」
文太が来ただけでも驚いたのに、調理を申し出られた。
「生憎豆腐は売り切れちまってな」
「……ああ……あなたの作るお豆腐は、とても美味しい……から……」
「いや。いつもは売れ残るんだけどよ。……お前、うちの豆腐食ったことあんのか?」
「藤原が……何度か、」
「ああ」
そういえば、涼介とこんな揉め事になる前、涼介の県外遠征チームの打ち合わせに行く拓海に、手みやげにと売れ残りの豆腐を持たせたことが何度かあったな、と文太は思い出した。
「お父さんのお豆腐、とても……美味しかったです」
涼介は俯き、思い出して頬を赤く染めた。
(……またお父さんか)
涼介にお父さんと呼ばれ、文太はあまりいい気がしない。
どうやら涼介はまだ、自分の息子になることを諦めてはいないようだ。
そうでなければお父さんなどと呼ばないだろうし、こんな身体で自分を出迎えたりはしないだろう。
涼介が本当に倒れているのか、本当に飯が食えないのか、そしてまだ自分を諦めていないのか……それらを確かめにここまで来た文太だったが、ど三つの疑問は、どれもこれも文太にとって一番望んでいない答えだったようだ。
「……あんなにおいしいお豆腐、初めて食べました」
涼介は削げた頬に赤みを差し、わずかに微笑んだ。
拓海に何度か貰った豆腐は、文太が作ったというオプションを抜きにしても美味しかった。
文太と会うまでは、「美味しい」豆腐だった。
が、文太と会ってからは、その味は涼介にとって特別なものになっていた。
文太が作ったものだと、文太の手が触れたものだと思うと、涼介はとても興奮した。
家族揃っての夕食の席で、涼介は拓海に貰った豆腐を食べながら、ただ一度会っただけの文太を思い出し、勃っていることに気付いたことがあった。夕食の後、涼介が自室に戻って何をしたのかは言うまでもない。
(どうやらオレの願いは叶わなかったみたいだな……)
目の前で頬を赤らめる涼介に、文太はやはり来るんじゃなかった、と後悔を新たにした。
涼介が本当は倒れておらず、食事もちゃんととっていて、自分のことも諦めてくれている……そうであればいいと思い、ここまで来た。
あの史浩という男は、涼介に嘘を言わされているのだと、拓海も嘘を教えられているのだと……そうであってほしいと思っていた。
しかし違った。
涼介は本当に倒れて寝込んでいた。
飯も本当に食っていないようだ。
なによりまだ、文太を諦めてはいなかった。
(……ま、来た以上は……やることはやるか)
居心地の良くない豪奢な家だが、ここまで来てしまった以上は当初考えていたことは遂行するより他はないだろう。文太は腹を括った。
「……どっちだ」
「え、」
文太がまた問うた。
涼介がきょとん、とした。
「台所。なんか作ってやるから台所貸せってんだよ。聞こえねえか?」
「……お父さん……作れるんですか?」
「あ?」
涼介が質問に質問で返した。おずおずと、訊ねる。
「あの……お父さんはお料理、作れるんですか……」
「馬鹿にすんな!」
失礼な質問に、文太が思わず声を上げた。涼介がビクっとした。
「男手一つで拓海育ててんだ。大概のもんは作れる。店じゃ飛竜頭も卯の花炒りも炒り豆腐も、全部オレが作って売ってんだぞ」
「あ……そう……ですよね……すみません……」
涼介が慌てて頭を下げ、謝った。文太の店には今まで二度行ったが、一度目に拓海に連れられて行った時は裏口から入ったから店の中はちゃんと見えなかったし、二度目に行き、文太に水をかけられた時は店じまいをした後で商品は何もなかった。
「キッチンは……こっちです……」
涼介が先に立ってキッチンへと向かった。後ろを文太が付いて歩いた。
質のいいフローリングの長い廊下に二つの足音が響く。
なにやら良い匂いが漂っている。スープのようだ。
廊下まで空調が効いていて、全く金持ちは、と文太は呆れた。廊下らしい廊下もない藤原家と違い、この家の廊下は広く長かった。子供なら全力で駆けられそうなくらいだ。
途中、扉がいくつかあった。所々に花や絵や彫刻が飾られ、大判のパネルにしたFCの写真も飾られていた。
その写真を見て、文太はふと思った。
涼介の譲れないものは、諦めきれないものは……自分の様に車ではないんだな、と。
赤城の白い彗星だなんて呼ばれるほど速く走れる癖に。
県外遠征チームを立ち上げる位なのに。
今時マイナーなロータリーエンジンの車を選ぶほどなのに、と……。
「ここです……」
天井まである大きな木製の扉の前で涼介が立ち止まった。少しふらついていた。
それを開くと、豪奢なリビングが広がる。と同時に、先ほどから漂っていたスープの匂いがより一層濃いものになった。
入り口の向かい側、中庭に面している部分は一面ガラス張りで、手入れの行き届いた庭があり、高い木がそびえて早い春を告げる花も咲いていた。
リビングの奥にはダイニングキッチンがあった。カウンター越しに、整理整頓されたキッチンが伺える。
「ほう…」
敷き詰められた絨毯も、ソファも、テレビも、オーディオセットもどれもこれも高価なものだと一目でわかった。
(歩くのにも気ぃ使うな……)
それらを見渡しながら、文太はやはり自分は場違いだと思った。
いったいどれだけ豆腐を売れば、あんな革張りのいいソファが買えるだろうか、考えただけで途方もない。
「適当に使わせて貰うぞ」
「……どうぞ」
文太が先にリビングに足を踏み入れた。
敷き詰められた上等のカーペットは足に心地良い。
涼介が後について入り、照明を付けた。
「お前は部屋に帰って寝てろ。出来たら起こしてやる」
「……でも、」
折角文太が来てくれたのだ。
文太が自分のために料理するところを見ていたい、と涼介は思った。
「いいから寝てろ。二回言わせんな」
語気を少し強められ、涼介は仕方なく頷いた。
「部屋、どこだ。上か」
「いえ。ここの向かいです」
「お前の部屋か」
「……本当は上が部屋なんですが、こんな調子なのでゲストルームで……」
「そうか」
ゲストルームがあるのかと驚いたが、これだけ大きな家ならばない方がおかしいだろう。
どこまでも金持ちは金持ちだ、このたった十分足らずで、文太は格差というものをいやというほど思い知らされた。
「じゃあ……」
頭を軽く下げ、涼介はリビングのドアノブに手をかけた。
「勘違いすんなよ」
キッチンへと向かう文太が、振り返らずに背中で言った。
涼介はドアノブに手をかけたまま、はっとして文太の背中を見た。
「オレは別にお前を息子にするために来た訳じゃねえんだからな。あの史浩とかいうヤツに、お前が倒れて飯が食えないって聞いたから嘘か本当か確かめに来たんだ」
「……あ……、」
史浩の名を出され、涼介は彼の顔を頭に思い浮かべた。
(史浩……)
昨日涼介の見舞いに来た際、史浩はハチロクのことで松本を拓海の家に向かわせると言っていた。
自分は忙しいから行かないと言っていたのに、実際は同行したのだ。
そして文太と会って、涼介のことを話したのだ。
(あいつ……)
いつも優しい涼介の幼なじみは、「自分は涼介には何一つかなわないよ」と謙遜して言うけれど、実際はそうではない。
涼介より史浩の方が、一枚も二枚も上手だ。
それを分かっているから、敢えてかなわない振りをしているのだ。
「オレへの当てつけでハンストされて死なれちゃいい迷惑だからな!」
ビニール袋をわざとらしく振り回しながら、文太はずかずかとキッチンへ入り、照明をつけた。
ばちん、と音がした。
「…………」
涼介は文太をちら、と見て、静かにリビングを出た。
キッチンは広く、よく整頓されていた。
一口しかコンロのない、一昔も二昔も前の作りの、自宅の台所とは全く違う。
さっき見た家政婦が全てしているのだろう、清潔に保たれていた。
小さな寸胴の鍋が三口コンロに置かれていた。
蓋を開けると、澄んだ色のスープが入っていて、先ほどから漂っている良い匂いはどうやらこのスープの匂いのようだ。
底には野菜が何種類も沈んでいて、見るからに栄養がありそうだ。
「……これ飲めばいいんじゃねえか?」
家政婦がスープをこしらえてあると言っていたのはこれか、と納得した。
とりあえず持ってきたものをカウンターに置き、手を洗い普通の家より大きな冷蔵庫を開けた。
「なんだこりゃ……」
その大きな冷蔵庫の中は、白い箱でぎっしりと埋まっていた。
試しに一つ二つ出してみると、中身はどれもこれも焼きプリンだ。
「…………」
『……涼介さんて何が好きなんですか? え? プリン? ああ、焼きプリンですか……じゃあオレ、それお見舞いの時の手みやげにします』
涼介が倒れたと拓海に聞いた日の夜遅く。
居間で拓海が電話をしていた。狭い家だから、会話は嫌でも聞こえてきた。
相手は遠征チームの誰からしく、涼介の見舞いに行く段取りを話していたようだ。
(アイツへの見舞いか……)
最低でも、箱の数だけ見舞いの人間が来たということだ。
涼介に対する心配の数。
こんなに沢山の人間が心配をしてくれているというのに。
(まるででけぇガキだな……)
文太は呆れた。
冷蔵庫の扉を閉めすぐ下の引き扉を開けると、野菜が整理整頓されて入っていた。
高崎駅前の高級スーパーのラベルが貼ってある。あんな高い店で買いものをする家庭があるのかと文太は思っていたが、どうやらここにあるようだ。
「……大根と人参と……」
文太は冷蔵庫の中から、目当ての野菜を探した。
涼介に雑炊を作ってやろうと思っていた。
「は……あっ……」
ぼすん、と音を立て、涼介は客間のベッドに勢い良く倒れ込んだ。
鼓動が激しかった。
喉がカラカラに乾いていた。
(お父さんが来てくれた……!)
涼介の全身に、叫びたいほどの喜びが漲った。
あの日、涼介は文太に水を掛けられ怒鳴られた。自分のあこがれを否定された。
もう二度と会ってはくれないと思っていた。
ましてや来てくれるだなんて、思ってもいなかった。
例え史浩に言われたからでも良い、確かめるためでも良い、自分を息子にするつもりでなくても良い、ただの気まぐれでも良い……時間を割いて、ハチロクを運転して、自分に会いに来てくれた……そして自分のために料理を作ってくている。涼介にとって、それは無上の喜びだった。
(嬉しい……凄い嬉しい……!)
涼介は布団をぎゅっとつかんだ。
(お父さん……お父さんっ……!)
想い続けていた人が、来てくれた。その事実に、涼介の心は満たされていった。
(お父さんが……)
涼介は手を伸ばし、枕の下に潜り込ませて触れたものをたぐり寄せた。
”お父さん"のことを書いたメモノートだ。
後の方を開くと、風邪を引いて寝込んだときの理想について書いてある。
さっきも読んだページだった。
寝込んだ自分を、”お父さん”は仕方ない奴だと言いながらも看病してくれる。
仕事の合間に、温かい料理を作ってくれる。素朴で、派手ではない料理だけれど、とても美味しい料理を。
そしてそれをスプーンですくって、食べさせてくれる……。
「ふふっ……あははは……」
涼介は久しぶりに笑った。ベッドにうつ伏せのまま行儀悪く足をパタパタとさせ、布団に顔を埋めた。
その様は、無邪気な子供のようだった。
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交錯編/夕暮編