拓海の、そして啓介の「プロジェクトD」としてのデビュー戦、正確に言えばプレ戦は、当初の予想と計画の通りにプロジェクトD側の勝利で終わった。
涼介には勝ち負けよりも(もちろん勝つつもりでいたのだが)、実際の遠征での時間配分や準備の手順、人員配置や連絡網などといった裏方的な仕事の確認が主な目的だった。
妙義の連中にもそれをメインに据えたバトルだということは伝えてあり、了承も得られていた。
それらはきちんと果たされ、当初の計画段階では見えてこなかった些細な「穴」や、認識不足だった点、また、改善すべき事項がすっかりと見えた。
そして拓海と啓介、この県外遠征チームのメインであるダブルエースの問題点も浮き彫りにされた。
一言でに言えば、気負いすぎということである。
プロジェクトDは常にアウェーで走る。ホームで走るバトルは、先日のプレ戦を除けば、まったくない。
アウェーである、それだけで気圧され、緊張で本来の走りができない走り屋が多い。それは二人も同じようで、バトルには勝ったもののタイムの伸び悩みがみられた。
どうやって二人のメンタル面をカバーするか、バトル当日にテンションを最高潮に持っていくか。それがダブルエースの問題点となった。
その役目は最年長者の松本に与えられ、史浩はプレ戦で判った、そのほかの問題点の改善に早速取り組み始めた。
昼下がりのファミレスの一隅で、史浩は松本と差し向かい、二人の間のテーブルに広げた資料の類を眺め、一人胃を痛めていた。
「予想以上の人出だったのはさておき、追っかけサイトなんてものが早速できているんだからたまったもんじゃないな」
ため息混じりに史浩が言った追っかけサイトとは、プロジェクトDのことを書いた個人のホームページのことで、それらは幾つも出来ていて、相互に情報を交換し合っているようだ。
単なるファンサイトではなく、書き手側もどうやら走りを齧っているようで、批評家気取りな上にバトルの合間の些細な言動まで、大げさに書かれている。
「遠征中の行動も気をつけないと、何を書かれることやらですよ。オレが整備していても、携帯電話のカメラを向けられましたからね」
「そうだったのか、気づかなかったな……」
松本の発言に史浩は驚いた。整備中まで撮影されたとなれば、作戦の要でもあるセッティングの流出にもつながりかねない。
「遠征地はバトルコースの下見と同じくらい、陣地の下見も熱心にしておかないといけませんね。なるべく人の入らないところに陣地を張りたいですね」
「そうだな」
「オレは職業柄、整備を人に見られるのは慣れていますけどね。ダブルエースですよ、問題は。人に見られて評価されることに慣れてる啓介さんでああでしたから、ましてや慣れてない藤原は、……」
続ける言葉をやめ、松本はため息をついた。
プレ戦での拓海はかなり萎縮していたのだ。
傍に一番いた松本から見ても、よくわかった。普段からぼおっとしていて無口だからわかりづらかったようだが、実際は緊張で足が震えていたようだ。
涼介と拓海がバトルをしたときよりもはるかに観客が多かった上にかなりの盛り上がり様で、それらは拓海の想像を超えていたのだ。
「すまないな松本、ハチロクのメンテナンスだけで手一杯のところに……」
「いえ、気にしないでください。ダブルエースのメンタル面、オレが何とか引っ張っていきますよ」
最年長者の余裕とも取れる笑みを浮かべ、松本は鞄からメンタル関係の本を取り出し、「早速齧ってますよ」と掲げて見せた。
「こういう系は得意ですから。それより、初戦の相手はもう決まったんですか」
「それを悩んでるんだよ。変更しようかと……出来るだけ近場から行ったほうが、ダブルエースの負担にもならないだろう。泊まりになるような所は避けて、まずは栃木からと思っているんだがな」
「なるほど」
「松本がさっき言ってた、整備中にも携帯で撮られるっていうのもあるから、最初の相手はフランクな感じで……いろいろと協力してくれる相手のほうがいいような気がするんだ。いきなり対立モードで臨んだら、ぎすぎすして藤原や啓介がベストを出せない可能性がある。
オレの知り合いのチームが栃木にあるんだ。涼介とエンペラーの須藤みたいに険悪な仲じゃないから、割とフレンドリーな感じでいけるはずなんだ。そこと初戦をすれば、と考えているんだ。最初の二つ三つは慣らしだよ」
「一理ありますね。物足りなさは否めないかもしれませんが、危ない橋を渡るのは後でも十分でしょう」
「まあな……」
史浩は特大のため息をついた。
ひとつ山を越えればまた次の山がある、それは当初からわかっていたが、県外遠征チームは予想以上に大変のようである。
「涼介は最初からエンペラーの下部組織とガツンと行きたい様だけどな、そりゃご勘弁、だ」
「ですね」
「人員配置ももう少し洗いなおさないとなぁ……」
「ええ。涼介さんもあまり時間が取れないようですから、できるだけオレたちで……」
「そうだな」
涼介の名が、出た。
ついさっきまで、松本の隣に居た。
啓介から回復の電話があった日以降、驚くほど元気になっていた。
あんなに臥せっていたのに。
さっきも、松本の隣で一人持論を展開し、初戦相手はエンペラーの下部組織がいい、いきなり派手な火花を散らした方が宣伝にもなると意気込んでいた。
(あいつがああなるっていうのは何か裏があるんだよな)
史浩は長年の付き合いから、涼介の癖を見抜いていた。
涼介の心が折れかける時、きまってその反動が激しいのだ。なにくそと思うのか。
走りをはじめてすぐ、他の走り屋連中に目をつけられ、最初の車をつぶされた時もそうだった。すぐに今のFCに乗り替えると、バトルを挑み、圧勝した。
文字通り走りのテクニックで相手をねじ伏せ、赤城の名前をそのチームから奪い取った。
(どうなっているんだろう……藤原の親父さんと)
気にはなるものの、それを涼介に問いただせる雰囲気ではない。
史浩は小さく息をつき、「なんかデザートでも頼むか」と松本にメニューを渡した。
ちょうど同じ頃、文太はガソリンを入れに祐一のスタンドへ寄っていた。
「拓海のデビュー戦、すごかったらしいじゃないか」
「あぁ? そうなのか」
祐一が文太を招きいれた事務室は早くも二人のタバコの煙が白かった。
プレ戦を見に行ったという池谷達から話を聞いた祐一は、「ぶっちぎりだったって聞いたぜ」と笑った。
「んなこたねーだろ、普段の拓海の走りじゃなさそうだな」
「そうか?」
「ああ、帰ってきたハチロクのタイヤ見たら判ったよ」
ありゃまだまだだな、と文太は口端を上げ、残り少なくなったタバコを灰皿に押し付けた。
バトルから戻った拓海の様子も、出し切ったという感じではなかった。緊張が残っているようだというのは文太にもわかった。「ま、走りこんでりゃそのうち慣れてくだろうけどよ」
少なくとも、そうなるように走りは身につけさせたつもりだ。精神面は拓海と回り次第だろう。
「いきなりでかい群馬エリアの看板背負って立つようになっちまったから、ブルってんだろ、拓海は」
「……よくわかるな、文太」
「当たり前だろ、自分の息子だぜ」
文太の分析に、祐一がほぉ、と感心した。
そう、拓海は文太の息子なのだ。
「あいつはメンタルがすぐ走りに出るからな……良くも悪くも」
「昔のお前もそうだったな、文太」
「あぁ? オレ、そうだったか?」
「自覚ないんだな、割とそうだったぜ、昔の文太は!」
祐一は肩を揺らして笑った。
「うるせー」
文太が拓海くらいの年だったころは、名実ともに群馬エリアのトップだった。
ぼーっとして、あまり欲のない拓海と違って、ぎらぎらとしていた。強いと言われればスピードはどこまでも乗り、たいしたことがないといわれればむきになった走りをしていた。
向かってくるものは拒まず、走りもすごいが口も悪い、というのが当時の文太の評判だった。そんな文太の傍にいたせいか、祐一まで同じだと思われて苦労したものだ。
「お前も丸くなったもんだよ、文太」
「そうかね……ま、フツーだろ」
祐一のおごりの缶コーヒーを二人並んで飲みながら、スタンドに次々と入ってくる車をさばく池谷たちを眺めた。若い背中がきびきびと動き、色とりどりの車が入っては出て行く。自分たちの頃とは違うかたちの車たち。
「丸く、か……」
「そういえば、高橋涼介は無事に復活したんだってな」
「そう、らしいな」
感傷に浸っていたのに、不意に出た名前に文太は内心、むっとした。
ここで、その名前を出されるとは。
「拓海のヤツ心配してたからな。ま、無事に県外遠征チーム始動、ってところか」
「……ああ」
考えたくもない、あの、綺麗な顔を持つ青年のことは。
泣きながら自分にすがってくる高橋涼介のことは。
どうして自分なのか、なぜ文太なのか。
涼介の言い分は判りたくもないし、分かり合えるはずもない。
丸くなど、なりたくはない。
少なくともあの男を認めたくなどない。
「ま、うまくいくだろうよ」
そう言って話を終わらせた文太は「そういえば、前に言ってたパートさんの話、どうなった」と違う話を始めた。
「あぁ、あれか。なかなか難しそうだぞ、文太。お前の思うようにはならないんじゃないかな」
「そうか」
祐一が難しい顔をした。
拓海が高校を卒業して就職し、店の手伝いをあまりできなくなるのに伴い、文太は店でパートタイムで働いてくれる主婦を雇いたいと思い、祐一に相談を持ちかけていた。
「ウチに前に居たパートさんたちあたってみたんだけどな、このごろは不景気だからみんな長い時間働きたいんだよ。お前の言うような短い時間ってのはあんまりないなあ」
以前このスタンドで働いていた主婦を中心に話を聞いていたが、文太の希望とあちらの希望とがどうにもすりあわないようだ。
「やっぱ、難しいかなぁ」
文太の店は朝と夕方が忙しい。その時間だけ働いてほしいというのが文太の希望だったが、そういう時間には主婦パートは家にいたいものらしい。
「広告出してみてもいいだろうけどな、求人雑誌に」
「あんまりカネもかけられねえしなぁ……」
「そりゃ広告はカネがかかるからな。まあ、もう少しあちこち聞いてみるよ」
「悪いな」
それから、半日が過ぎた。
深夜に、ゆっくりと「事態」は動いていた。
デスクの明かりだけが頼りの自室で、涼介は白い紙に向かっていた。
プレ戦も終わり、今日は時間に比較的余裕がある。やるなら今日しかないのだ。
時刻は、早朝3時。あと、二行ほどで書き終わる。
濃い色のボールペンで、まめだが癖のある字で、白い紙に一心不乱になにかを書き付けていく。
(もうすぐ、会えるんだ)
また、あの人……文太に。
そう思うと、涼介の心はわくわくと落ち着かなかった。
白い紙の左側の上部には、昼間に撮影した自分の証明写真を貼り付けた。
ここから、あの家までの走行距離やかかる時間も計算済みだ。
(オレは、あの人のそばで居たいんだ)
どんなに冷たくされてもいい。文太のそばで居たい。そう、思ったから。
突き放されるなら、受け入れてもらえるまで食らいつけばいい。二度、拒まれてもまだあきらめ切れないのだから。
認めてもらえるまで、何度でも、だ。
全てを書き終えると、涼介は立ち上がった。
「いいんじゃないかな」
書き付けていた紙が文字でぎっしりと埋まった。
涼介はそれを折り、封筒に入れると、コートを取って部屋を出た。
「あっ、アニキまだ起きてたのかよ」
廊下を出てすぐ、風呂上りなのか濡れた髪のままの啓介が下から上がってきた。
「お前こそこんな時間に風呂か。ご近所の迷惑を考えろ」
「いーじゃん別に、それよかどこ行くんだよ、アニキ」
「ん? オレか?」
「そうだよ、コートなんか持って……こんな時間に……もしかして腹減った? コンビニならオレ行くぜ?」
回復したとはいえ、まだ涼介は以前よりは体重が減っているのだ。今夜は肌寒い。外に出て風邪でも引いたら、また大事になる。
「いや、違う。バイトの面接だよ」
涼介はそう言うと、掌のFCのキーを見せ付けた。
「……バイト? 面接? こんな時間に???」
「ああ」
「えっ、ちょっと、アニキっ!」
頭の上にクエスチョンマークを浮かべた啓介をよそに、涼介は「じゃあ」と家を出た。
すぐさま、独特のエンジン音が響いてきた。
深夜三時過ぎであるにもかかわらず、涼介はロータリーサウンドを響かせながらFCを走らせた。
向かう先はひとつしかない。
渋川にある、藤原豆腐店。
勝算はあった。
深夜、もとい文太にとってはもう朝だ。
真冬よりはすごしやすく、仕事もしやすくなった。春特有の匂いが漂っている。
その日一日の豆腐のうち、早朝に必要な分を拵えると、拓海が起きてくるよりも前に一通りを終え、ハチロクにはホテルに配達する豆腐を積み込んだ。
拓海が配達に向かっている間に、少しの休憩、そして午前中に文太自身が行う配達の準備や店売りの手配をするのが常だ。
「今日もこんなもんだろ」
ハチロクのトランクに積み込んだ容器には、満タンの豆腐がぎっしりと詰まっている。
観光シーズンということもあり、レイクサイドホテルは連日満員で、日帰りのランチも好評なようだ。この豆腐屋には毎日のように注文が多く舞い込んでいた。
拓海の部屋から目覚ましの音がし、すぐに切れた。五分ほどしたら、だるそうな足音が階段を下りてくる。
(たるんでやがるな)
肩で笑うと、「拓海」と声を掛けた。
「何……」
眠そうな顔がのぞいた。
「おはよ、オヤジ……」
「おう。今朝も多いからな、気ィつけろよ」
「うん……あ、伝票……」
「ちゃんと貰ってこいよ、今日は」
昨日、拓海は寝ぼけていたのか受け取りの伝票をホテルに貰い忘れてきたのだ。
顔を洗ってトイレを済まして着替えると、拓海はハチロクに乗り込む。
水の入った紙コップを手渡し、「行ってこいよ」というと、拓海はうなずき、ハチロクはゆっくりと走り出す。
赤いテールランプを眺めながら、拓海が仕事を本格的に開始したら、自分もまた朝の配達に行くべきだろうかと文太は考えた。
「さて、……用意するか」
肩をまわすと店に戻った。
さっき立てかけたばかりの俎板をまた流しに置き、タバコを取りに居間に上がった時、「すみません」と人の声がした。
「はい」
こんな時間に明かりがついているせいで、店を訪れて出来立てを売ってくれという早起きの、物好きな客が時々居る。
またその手か、と文太が振り返ると、そこには、思いもかけない人物が立っていた。
「お前……っ」
「おはようございます」
首にはマフラーを巻き、白い息を吐き、にっこりと微笑む男――高橋涼介が、店の入り口に立っていた。
「てめぇ……何しにきた」
文太の機嫌が、とたんに悪くなった。
当然だ。この男が自分を息子にしてくれ、愛してくれなどと突拍子もないことを言い出してから、ろくな気持ちになったことがないのだから。
あの日、涼介の家にわざわざ出向いてまた断って、それで終わったと思っていたのだから。
「こんな時間から……」
タバコを一本くわえてサンダルを突っかけると、文太は居間の上がり口に腰掛けた。
涼介は入り口のところで立ったまま、店の中を見渡している。
「あの、お願いがあって、参りました」
「……何だよ」
涼介のお願い、という言葉に、文太の心がちくりとささくれる。
どうせまた、息子にしてほしい、受け入れてほしいなどというのだろうと文太は予想していた。
「オレを、この店のアルバイトとして雇ってくださいませんか?」
「あ?」
が、涼介の口から出た言葉は、予想の斜め上だった。
「アルバイト?」
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