『おはよう藤原。さぁ、乗ってくれ』
喜色満面の涼介にタクシーに乗るようにすすめられ、スポーツバッグ一つを抱えた拓海は『はい』と小さく返事をして後部座席に乗り込んだ。
その朝は本当は拓海が豆腐の配達の番だったが、飲み過ぎを理由に文太に代わってもらった。
文太はまだ戻っていなかった。
拓海の隣に涼介が乗り込むと、バタンと軽い音を立てて扉が閉まった。
『藤原、海と山、どっちがいい?』
昨日考えておいてくれと言われた、逃げる先のことだ。
逡巡し、拓海は『じゃあ、海で』と答えた。秋名の山の麓で生まれ育ったから山はもうお腹一杯だったし、自分の名前に海という字が入っていたからだ。
拓海の答えに涼介は頷き、聞いたことも無い地名を運転手に告げた。六十台半ばと思われる太った運転手は軽く頭を下げ、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。
タクシーは渋川を離れ、高速に乗り、拓海の生まれ育った街から、そして群馬から離れていった。
薄暗かった車窓の向うの空はゆっくりと白んでいき、澄んだ空気が朝の色に染まってきた。
カーラジオは朝のニュースを伝え、二人の間に会話は無かった。
しかし、拓海がちらっと横目で見た限りでは涼介はやはりとても嬉しそうに見えた。今にも鼻歌でも歌いだしそうな位に。
昨夜の飲み会の後、啓介と宮口とケンタが二次会のカラオケに行き、お開きになる直前に目を覚ました涼介は眠たいからとさっさとタクシーで帰ってしまった。史浩もテストの採点がまだだからと代行で帰り、拓海も仕事の疲れを理由にバスで帰宅した。
帰り際、涼介は拓海に『5時だ。必ず迎えに行くからな』と耳打ちした。
拓海は小さく頷いた。
帰宅した後、拓海はとりあえず数日分の着替えや財布、預金通帳など必要最低限のものをスポーツバッグに纏めた。新品の歯ブラシとヘアブラシ、封を切っていない整髪料、携帯電話の充電器、等等。
バッグのジッパーをきゅっと閉じ、ベッドの脇に置いた。
“なぁ、藤原。お前、オレと逃げてくれないか”
という、涼介の言葉は拓海の頭の中で何度も繰り返された。
酔った涼介の戯言と思いたかったが、史浩から聞いた松本という前例がある。
本当に涼介は迎えに来る、と拓海は確信していた。
身の回りの全てから逃げる、と言うのが抽象的すぎて、具体的にどんなことがいやなのかが拓海には分からなかった。
逃げたい詳しい理由を聞かせてください、と言うのは簡単だろうが、果たして涼介は答えてくれるだろうか。答えてくれるとしても、少なくとも今はその時ではない……拓海はそう思った。
人から見れば羨む様な頭脳と美貌と地位とドライビングテクニックとカリスマ性を持っている涼介だが、だからこそ本人にしか分からない苦悩が、きっとある筈だ。身の回りの全て。大好きな車、子供の頃から目指していた医者という職業、大病院の跡取り息子という恵まれた環境、可愛がっていた弟の啓介、他人からの評価、エトセトラ。
いつだったか、オレは生まれたときから医者にならなきゃいけない運命なんだよ、いや、これは宿命だな。”でもしか”じゃあいい医者にはなれないかもな。と苦笑していた、そんなことをふと思い出した。
拓海は考えていた。
このままどこか海の町に行き、そこで十日か一週間、涼介の思うがままに暮らし、ゆっくり眠って、それで涼介の気が済んで"やっぱり元の生活に戻ろう"と思い直してくれるのが最善のシナリオ。
最悪なのは、"死"。つまり、涼介が自殺を考えているシナリオだ。
死を目の前にするとハイテンションになるという話を聞いたことがある。だから涼介の上機嫌さがやけに気になる。
もし涼介が死を選ぶようなそぶりがあるのなら、自分は何がなんでも涼介を止めなければいけないし、説得しなければいけない。一番あって欲しくは無いパターンだが、可能性として全くゼロとは言い切れないだろう。
拓海は涼介の様に逃げたかったわけではない。しかし敢えて、涼介と一緒に行動する道を選んだ。
涼介が万が一にも、死を選んだりしないように。
そして拓海は戻るつもりだった。生まれ育ったあの渋川の豆腐屋に。だが、書置きの類は一切残さなかった。
文太に迷惑を掛けるだろうことは容易に想像できた。チクリと、拓海の心が痛んだ。
“オレは涼介さんのように逃げたかったわけではない”――筈だった。
タクシーは他県のある駅前ターミナルに到着した。そこで一旦タクシーを下りた。これからバスに乗るのだという。
バスステーションのベンチで涼介は携帯電話でどこかに連絡をしていた。後で聞いたところによると、不動産屋だったという。
涼介はスーツケースを、拓海はスポーツバッグを手に路線バスに乗った。
通勤時間帯より少し前で、二人のほかに客は殆どいなかったから、一番後ろの席に並んで座った。
最前列の少年が、何処其処高校サッカー部の刺繍のあるエナメルバッグを床に下ろしていた。
そういえばオレ、高校の時サッカー部だったな、と、拓海は他人事の様に思った。
路線バスは均一区間を抜け郊外に入り、山をのろのろと登った。
山道には走り屋がつけたらしいタイヤ痕が幾筋も残されていて、ガードレールがひしゃげていた。この峠にも走り屋はいるらしい。
下手くそだな。涼介が呟いた。タイヤ痕を見て言っているのだろう。拓海は何も言わなかった。
山を登りきったところには広い展望台があり、アイスクリーム屋の小さな店があった。
そこからはまっすぐな下り坂だった。
『あ、……海……すげえ……』
拓海は思わず感嘆の声を漏らした。
まっすぐな長い長い坂の下には漁師町と言う表現がぴったりな町が弓形にあり、そしてその向うには海と空が世界を上下に分けて半分ずつ広がっていた。
水平線から昇った朝日が目一杯照らした海はきらきらと光り輝き、何艘かの船がゆっくりと行き来していた。
『藤原。あそこが、これからオレ達が住む町だ』
涼介が弓形の町を指差した。
拓海は涼介を見た。
涼介はやはり笑顔だった。
そしてそれは、今まで拓海が見た涼介の笑顔の中で、一番綺麗な笑顔だった。
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