随分深く眠っていた気がする。
拓海が目を覚ますと、すっかり朝だった。
そして――涼介の腕枕だった。
昨夜のままで眠ってしまっていたようで、一枚の布団に2人だ。布団の周りに散らかしたティッシュもそのままだった。
真夏ではないから、下着だけはさすがに身につけてはいたけれど。
「涼介さん、……」
拓海が呼ぶと、涼介が瞼を何度かピクピクさせ、ゆっくりと目を開いた。
「……ん、ああ……藤原。おはよう」
「おはようございます。……そろそろ、起きませんか」
枕元の目覚まし時計は、9時近くを指していた。
「そうだな」
涼介が微笑んだ。
今日は週に一度の漁協の休業日で、塾も休みだ。
「今日、どうします? 一日ゆっくりします?」
遅い朝食をとりながら、拓海が訊ねた。
「色々買いたいものがあるから、隣町に行こうか」
涼介はつけっぱなしのテレビを横目で見ながら答えた。
テレビはワイドショー。芸能人が別れただとか、くっついただとか、どうでもいいような話だ。
「わかりました。じゃ、そうしましょう」
拓海が同意し、今日の行き先が決まった。
玄関の施錠をして外に出ると、秋晴れのいい天気だった。
こんな日に仕事が休みなのはうれしいことだ。普段なら魚の匂いとトラックのエンジン音と、威勢のいい海を仕事場とする人間のかけ声で騒がしい漁協も、今日はひっそりしている。遠くで誰かの話し声が聞こえる。
カーポートの下に停めた軽自動車のドアに手をかけた拓海の目に、釣り客を乗せた渡し船が二隻、一文字に向かっているのが見えた。
「幸雄さんとこの渡船かな?」
拓海が目をこらした。一年を通し、釣り客でこの小さな町は賑わっていた。
今の時期ならなんだろう、と拓海は考えた。鯵か、太刀魚か。いや、鯵を釣ってそれを餌に太刀魚か。幸雄さんは釣り客に損をさせないから、きっと釣果はいいだろう。
「あの音は、そうだな」
涼介は船のエンジン音で親しい漁師の舟だと判断した。
数年前まで、その耳が聞き分けていたのは自動車のエキゾーストだった。
しかし今は違う。
この町で値打ちがあるのは車より船。エンジンと言えば船のエンジン。
FCではなく、オートマチックの軽自動車が拓海と涼介の足だ。
FCは売り払ったのではなく、信頼できる人に預けてある、と涼介は言う。拓海はその言葉を信じていた。
2人は小さなワンボックスの軽自動車に乗り込み、弓なりの街の形に添って走る細い道をだらだらと、そして隣町に続く坂道を上る。オートマチックだからあまりスピードは出ない。
こんな時、せめてミッションなら、とナビシートの拓海は思った。
退屈そうにステアを握る涼介の横顔に、拓海は今でも涼介がFCのステアを握りたくて仕方ないのではないだろうか、と思う。
けれどFCをここに持ってくれば、きっとこの生活は、2人を捜しているだろう人間に見つかる。
わかっているから、涼介は我慢しているのだ。
隣町に続く坂をセカンドで登ったが、オートマはどうも頼りない。
(FCだったらこんな坂……)
拓海はわずかなため息をこぼした。
海辺の町と違い、坂の向こうの隣町は賑やかな、いわゆる都会の町だ。
高層ビルだらけで、たまに遊びに来るにはいいけれど住むのはごめんだな、と拓海は思う。
大型の書店で涼介が塾の教材を選び、まとまった数を家に届けてくれるよう注文をした。
ショッピングモールを歩き、眼鏡屋で涼介の眼鏡のフレームを見て、ファーストフード店で軽い昼食をとった。
「昨日、な」
「はい」
ホットコーヒーの空きカップを手に、涼介が困ったような顔をした。
「寿司屋のおじさんが来てな」
「ええ、」
あの町に、小さな寿司屋がある。浜値で仕入れた新鮮な魚が売りだ。
「見合いしてみないかっていわれたんだ」
「……見合い?」
「ああ。あの店、あちこちからお客さんが来るだろ、それでどこからか、そういう話が出たみたいで」
見合い、と言う言葉に、拓海の心に、ぴんと細い糸が張った。それは……緊張と焦りの糸だ。
涼介に見合いを勧めた店は小さな町の小さな寿司屋の店主だ。
あんな小さな町の店だが、食通にはわりと知られていて、店の駐車場に県外ナンバーの車が止まっているのは珍しいことではなかった。
「……それで、どうしました?」
いけない。声が、上ずっている……と拓海は自分の焦りに気付いた。
「断ったさ、もちろん」
涼介はふ、と笑った。
拓海はその時、ほっとした。心の底から……ほっと、した。
「オレには藤原がいる。それで十分だ」
涼介がほほえみ、カップを握る拓海の手にそっと触れた。
拓海は思わず周囲を見渡したが、みんな自分たちのおしゃべりや食事に夢中で、自分たちを見ている様子はない。
「涼介さん、……」
拓海の心臓がどくんと聞こえるほど大きく打った。
「……ありがとうございます」
つぶやくと、涼介が目を細めた。
「どうしてお礼言うんだよ。お礼を言うのは、オレの方だ」
「りょ……」
「オレのわがままに、ずっとつきあってくれている。藤原じゃなきゃ、三年も続かなかったかもしれない」
その言葉に、拓海ははっとした。
三年。
気づけば三年という、短くはない年数がたっていた。
「――あの、オレにも、実は」
拓海は自分の手の上に置かれた涼介の手を眺めながら切り出した。
綺麗な手だと思った。
「見合いか?」
「……いえ、漁協の方で、バイトのままじゃなくて正職員にならないかって……」
「いいじゃないか。給料だって上がるだろ?」
「そりゃそうですけど。でも、そうすると多分オレも見合いさせられますよ。なんかそんな雰囲気です。だからオレ、断ったんです」
「……そうか」
拓海に正職員になることをしきりに進めてくるのが共済部の課長で、年頃の娘がいるという。
娘は都会にいるが戻ってきてほしいというのが口癖だった。課長の奥さんが真面目に働く拓海を気に入ったようで、拓海を正職員にして、娘と見合いさせて入り婿にでもと考えているようだ。会話の端々から、そんなことが伺える。
「それに正職員になると、営業成績とか色々あるし……オレも、涼介さんがいたらそれでいいです」
その言葉を、拓海は涼介を見ずに言った。
顔が熱かった。
そんなことを口にしたのは、この三年で初めてのことだったからだ。
駅前のデパ地下で、夕食用に少し奮発して美味しいお惣菜を買った。
涼介の好きなサラダと、拓海の好きなコロッケと。
デパートを出て、いい匂いのする袋を手に交差点で信号待ちをしたが、信号はなかなか変わらない。
(長いな……)
だから街は嫌だな、と拓海が思っていたら、2人の目の前を、ロードスターが走った。
「……」
史浩が乗っていたのと同じロードスターだった。
思わずボディにステッカーを探してしまった。
ない。
……拓海はほっとした。
隣に立つ涼介をチラ、と見たが、動じる様子はなかった。
(何焦ってんだろ、オレ……)
海辺の町に越してきてしばらくは、道行く車をいちいち気にしていた。
黄色いスポーツカーにどきっとしたことがある。黒いスカイラインに、ランエボに。
心臓が止まりそうになったことは何度もあった。
町に戻り、昨日塾にこられなかった子供の為に、昨日のうちに涼介が用意した封筒を二人で届けた。
中身は宿題と、来月の通塾カレンダーだ。
ポストに封筒を入れていると二階の窓が少し開いて、おでこに冷却シートを貼り、マスクをした女の子が「先生」と顔を出した。
「めぐみちゃん、風邪か?」
涼介が二階のめぐみに声を掛けると、小さな首が横に振られた。
「ううん。ヨウレンキンとかいうの」
「溶連菌か。今流行ってるからな……ちゃんと薬、飲むんだぞ」
「うん。先生、あたし早く塾に行きたい」
可愛らしい願いに、涼介が目を細めていた。
家に帰り、台所に惣菜を置いて、どちらから言うともなく二階の部屋に2人で入った。
何が起こるかはわかっていたから、拓海は涼介に続いて部屋に入ると、箪笥の上に携帯を置いた。
――三年、だ。
ここにも三年があった。
越してきたときは新品だったこの箪笥も、三年たつと細かな傷があちこちに目立った。
この三年、自分は何も生まず、進歩せず、ただ傷を付けるだけで平穏な日々をむさぼっている……。
拓海は唇を噛んだ。
「藤原、」
部屋の隅に積んだ二組の布団の前で、涼介が拓海のほうを向いて声を掛けてきた。
「あ、はい……」
昼間の部屋は、カーテンを閉めてもまだ薄明るい。
往来では誰かが話している。笑い声がする。
スクーターが走る音がする。
「――声、控えろよ」
「っ……、く……ぁ、」
涼介と抱き合い、欲望をその身に受け入れながら、拓海は声を殺して喘いだ。
薄明るい部屋は性の匂いと、2人の汗の匂いが充満していて、涼介が腰を動かすたびにいやらしい水音がやけに響いた。
「涼介、さん……ぁ……すご……ッ」
拓海の中で暴れる涼介自身。
昼間だというのに、いつもより激しい気がする。
内臓を掻き出されるような抽送に、拓海は乱れた。拓海の胸の二つの飾りは堅く立ち、ペニスは腹につくほど反り返っている。
良く知った、拓海のいいところを涼介の先端がノックする。
「りょ……も、あ……ぁー……ぅッ、」
イく、と拓海が訴えかけた時。
「……藤原、オレのこと、好きか?」
上になっている涼介が、額に汗を浮かべて訊ねた。
「……?」
そんなことを訊ねられたのは、初めてだった。
この三年。
初めて、聞かれた。涼介に。
その問いに、拓海の心臓が鷲掴みされた。
「好き……ッ、です、涼介さん……好き、好き、好き……!」
拓海は答えた。夢中で答えた。
堰を切ったように、好き、という言葉が拓海からあふれ出した。好き、好き、と何度も言った。
この三年、聞かれなかったけれど拓海は確かにそう思っていた。
それは昨日今日のものではなく、ゆっくりと育んだ思い。
涼介が、好きだ。
峠で会った時は、プロDの時は確かに尊敬だったその思いは、この三年で恋愛の情に代わった。
最初は心配と身体から始まったけれど。
「りょ、すけさん、好きッ……!」
「オレもだ、藤原……好きだ、藤原……」
「うれしっ……」
涼介も、拓海を好きだ、と言った。
拓海は心が満たされるのを感じた。
「だから……藤原、」
オレから離れないでくれ、と涼介が言った――その時には、拓海はもう射精し、失神していた。
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