海辺の町





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涼介が、父の死を知らされてから三日が過ぎた。
その日は遅番勤務だった拓海が帰宅すると、塾が丁度終わる時間だった。
子供達が小さな離れから次々と出てきては、自転車に乗り込み、はたまた迎えの車に乗り込んでいく。
拓海を見つけた子供達が、拓海に手を振ってくれた。
「あっ、拓海先生、さようなら!」
「お休みなさい、先生」
別に拓海は先生でもなんでもないのだが、――時間があれば、塾のマル付けを手伝ったりするくらいで――それでも子供たちは拓海も先生と呼んでくれている。
「ああ、お休み。気をつけて帰れよ」
「はあい」
都会と違って、こんな時間に塾帰りの子供達が騒いでいても咎める大人はいない。大らかな町だ。
子供たちは騒ぎながら三々五々、家路についていく。


「涼介さん、ただいま帰りました」
離れに入ると、子供達が帰った後の部屋で涼介がプリントを纏めていた。
授業が終わった後の塾は、座布団があちこちに散らばっている。涼介一人の部屋は、やけに広く見えた。
「お帰り、藤原。悪いけど、コピー機切っといてくれ」
メガネをかけた涼介が、拓海を見てやわらかく笑んだ。
「あ、はい。メシ、作りますね」
拓海は自分のすぐ傍にすえつけてあるコピー機のスイッチを切った。
「ああ。十分位したら行くよ」
「ご飯炊いてましたよね」
「うん」
いつもの会話を交わして、拓海は家へ入った。灯りをつけて、台所で夕食の支度を始めた。


干物を焼くいい匂いが台所から漂ってくる。
涼介はプリント整理を終え、書き物をしていた。
白いコピー用紙に、マジックで、下書きもなく、ただ思いのたけを、書き綴っていく。
二行、三行、四行とその文章は長くなっていった。
きゅっ、きゅっと、マジックが紙を滑る音がしてインクの匂いが鼻腔を擽る。
文章は几帳面な涼介らしく、紙面をいっぱいに使って終わった。
そして一番下の余白に、自分の名前を書いて。マジックの蓋を閉じ、その紙を棚の一番奥に締まった。
「……叱られるかな……」
この後のことを思い、涼介は苦笑した。


「あ、涼介さん、もうすぐ出来るんで待っててください」
家に戻ると、拓海がエプロン姿で居間の卓袱台に皿を並べていた。
「いい干物貰ったんですよ。桐の箱に入ってたんですよ」
「へぇ、そりゃ楽しみだな」
「せっかくなんで、他にも色々作ってたら時間がかかっちゃって……」
拓海は頭を掻き、また台所に消えた。甲斐甲斐しいその姿に、涼介は目を細めた。
愛しい拓海。大切な、涼介の、拓海。
こんな、ダメな自分と一緒に三年もいてくれる、唯一無二の存在だ。
「ありがとう、藤原」


桐の箱に入っていただけあって、干物は美味しかった。
頂き物の常備菜に、拓海が作った和え物や味噌汁、サラダで狭い食卓は溢れた。
「今日は豪勢だな」
「数だけは。涼介さん、飲みます?」
「いや……今日はいいよ」
拓海がビールを勧めたが、涼介は断った。
湯気を立てる干物に箸を入れながら、涼介が拓海に切り出した。
「なあ、藤原」
「はい」
「……後で、話があるんだ」
「はあ……」
涼介が改まった風に言うものだから、拓海はきょとん、としてしまった。なにせ二人しかいない家だ。話をするなら、今でも良さそうなものを。
「今じゃ、ダメなんですか?」
「……そうだな、ちょっと……ちゃんとした話だから……」
干物を頬張り、涼介は意味ありげに笑った。
(なんだろう……改まって話し、って……)
三年も涼介と一緒にいて、そんなことは初めてだった。
「わかりました……」
訝しがりながら、拓海は頷いた。


日付が変わろうとしている。
二階の寝室の窓から眺める夜の海は、日付を跨ぐこの時刻も穏やかに凪いでいる。時間というものは、波に乗ってやってくるのだろうか、とこの町に来た最初の頃、涼介はそんな詩人のようなことを思った。
静かに打ち寄せてくる波の音。
冬の近づいた夜の月明かりを映し、きらきらと煌いている海。
知らずに心地良く、耳の奥に馴染む波音は、三年間拓海と涼介の傍にいつもあった。
「綺麗、だな」
「……そうですね」
灯りを消した寝室で、二人して窓際で三角座りをし、夜の穏やかな海を眺める。
「話って、なんですか? 涼介さん」
話があると呼び出され、部屋に入ると海を見ようといわれ、かれこれもう一時間にもなる。
じれったいのは苦手な拓海が本題を促すと、涼介は「ああ」と頷いて、そして。
「藤原、オレは……」
と、とても綺麗な笑顔で、拓海の目を真っ直ぐ見据えたまま、喋りだした。
「はい」
「……今、とても生きたいんだ」
「生きたい?」
「ああ。生きることが、とても楽しいものだと、今は思っているんだ。幸せだと思う」
「……それって、……」
抱えた膝に顎を埋めて、涼介は行った。


遠くで汽笛が聞こえる。
家の前の漁協の駐車場で、学生が騒ぎ始めた。


「……死にたかった頃があったんですね」
拓海が問うた。
涼介は、ゆっくりと頷いた。
(やっぱり……そうだったんだ……)
拓海は、あの日――涼介とこの町に来ることになったあの日、自分が密かに抱いていた疑問が、確かなものであったことに、ショックを受けた。
「お前とこの町に来た日、オレは死にたかった」
涼介は拓海の質問に、そう答えた。
いつも素敵で、誰もが憬れる存在であった涼介。おかしいと思った拓海の予想は当たっていて、やはりあの日、涼介は死にたかったのだ。
「死のうと思って、それまでの間を共に過ごしてくれる人間を、お前に選んだんだ」
「……」
予想していたことが、全くその通りで、拓海は相槌すら打てなかった。


「オレはあの日、死にたかった」
涼介ははっきりと、そう言った。






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